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「街に生きる ある脳性マヒ者の半生」八木下浩一2014年09月12日 23時35分18秒

街に生きる ある脳性マヒ者の半生
脳性マヒの八木下さんは、「就学免除」のため教育を受けていませんでした。
大人になり、どうしても小学校にいきたくなり、教育委員会と粘り強く交渉して、28歳で小学生になります。
本のサブタイトルは「〜〜の半生」となっていますが、これは、「遅れてきた小学生の物語」です。

筆運びは反復や過剰な接続句があったりして、名文とは言えないかもしれませんが、ぼくには八木下さんの人柄が伝わってくるとても気持ちの良い文章だと感じられました。
コツコツと人の心の扉に問いかけのノックをするような八木下さんの訴えは、非常に説得力があります。
やはり差別されてきた当事者だからでしょう。

ぼくが小学生の頃は、養護学校(特別支援学校)などというものはなくて、クラスに知的障害の子が普通に存在していました。
ま、たまに「からかわれたり」することもあった記憶もありますが、クラス全員が自然に彼と接していました。
差別されていたということはないし、ぼくも彼を見て、いろいろなタイプな同級生がいるなと感じたものです。

人間はやはり多様ですから、クラスにいろいろな子がいた方が良い。
障害児に接することで、健全児は学ぶ訳です。
養護学校義務化というのは、「就学免除」だった障害児に教育の場を与えたと同時に、健全児との分離・隔離をおこなってしまった訳です。

特別支援学校(学級)が是か非かと論じるならば、まずは総論から語るべきです。
こういう議論にいきなり各論を持ち込む人がいます。
極端な一例を引き合いに出して、障害児が授業の足を引っ張るとか、却って本人が可哀想だとか。
しかし、いくら「木」を論じても、「森」の形は見えないでしょう。

障害児を健全児を分離することの害毒をまず総論として論じないと、実りのある議論になりません。

同様に、知的障害者の「自立」をどう考えるかについても、全体論から始める必要があります。
障害の種類や程度は多種多様です。その人の年齢によって「自立」の意味も違ってくる。
しかし、「知的障害」の有無で障害者問題を細分化してはいけない。

障害者は社会の構造によって差別され、障害を「持たされている」という意味で共通なのだから、障害者全員の自立を考えるべきです。
そして、CP者たちが街の中で生きていけるような自立が完成すれば、そこで得られた知識とか経験とか、当事者とかのニーズを整理して、知的障害者にもどういう自立の支援が必要かが明らかになってくるのではないでしょうか?
議論の先頭に、知的障害者の自立を持ってくるのは間違っています。
そういう順序で論を立てる人は、結論が最初からあるのではないかと疑いたくなります。

1980年に出版されたこの本。
当然のごとく絶版ですが、本当に惜しい。
将来、教育関係の仕事をやってみたいと思う若者にはぜひ読んで欲しい一冊です。

障害児の受容をめぐる生命倫理について、語る2014年09月13日 22時28分26秒

診療が終わってから東京・湯島へ行ってきました。
コミュニティケア・センター
http://homepage2.nifty.com/comcare/
の佐藤修さんが主催する「第3回ちょっとハードなカフェサロン」
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2014/08/post-dc8c.html
で、「障害児の受容をめぐる生命倫理」について語ってきたのです。
もちろん、「運命の子 トリソミー」が起点になっています。

参加者は僕を含めて12人。
様々な職種の人達が、高い問題意識を持って集まりました。
ぼくは「問題提起者」としてスライド54枚を使い、約45分、プレゼンテーションし、その後、全員で1時間を越える討論を行いました。

僕の問題提起が、参加した皆さんの満足できるレベルに到達していたか、大変心許ないのですが、少なくとも僕にとっては非常に勉強となる時間を過ごすことができました。
そして自分の知識や体験の足りない部分も明らかになったように感じます。
これからの課題にしていきたいと思いますが、焦っても仕方がないので、数年のスパンで学びを深めたいと決意しました。

すべては書ききれませんが、印象的だったことをいくつか。

1 人間は変わることができるという指摘。障害児の孫を受け入れることができなかった祖母が、その後、児を深く愛するようになる。そこに人間の可能性を感じるという意見がありました。
僕は事実を書いたのみでしたが、言われてみると確かにそういう深い意味があると気づかされました。

2 ゴーシェ病の母子が、(在宅人工呼吸器という)同じような道を歩もうとしている家族に、教えることができる、役に立てる、そのことに生きる意味を見いだせるという部分が素晴らしいという指摘がありました。僕もまったく同感です。

3 「医師の使命とは何か?」と質問されてうまく答えることができませんでした。これには理由があって、僕の中には「答え」が複数あるため、どれを取り出せばいいのか咄嗟に判断が付かなかった。ですが、この質問は本当に嬉しかった。ぼくはこの問いによって医者としての原点にもう一度回帰できるような気がします。
医者の使命とは、「命を守る」とか「命を助ける」ということでは「ない」と、実は僕は考えています。
なぜなら、人は不老不死ではないからです。医者が病気を治し命を助けるなどというのはおこがましい。
医者の本分は「困った人の相談に乗る」ことだと思います。
人はいろいろな部分で困りますが、健康問題で困るのはなかなか辛い。しかし医者はこの部分に関してはかなり人様のお役に立つことができる。場合によっては治すことも可能「かも」しれない。それが叶わなくても、相談には乗ることが可能でしょう。
ここが一番重要ではないか?
健康で困っている人に対して1時間でも2時間でも話を聞いてあげられる。それが医者の特性であり、本質にして義務でしょう。
困っている人を助けてあげられて、なおかつ、収入を得られるというのは本当に良い仕事だと思います。

4 プレゼンで市井三郎先生の「歴史の進歩とはなにか」を引用しましたが、複数の参加者から賛同の意見が出されました。やはり偉大な思想は時間を超えるのだなとつくづく感じました。
若き日の松永青年が最も影響を受けた思想家です。

大して詰まっていない脳みそを精一杯使ったせいでしょうか、大変疲れました。
やはりこういう刺激がないと、人間はどんどん劣化していきますね。

「ゆめいらんかね」を読む2014年09月14日 20時56分10秒

読了しました。
僕にはテレビを観るという習慣がないため、「やしきたかじん」さんという方は、名前しか知りません。
ですがさすがに角岡伸彦さんの筆にかかると人物像がきりりと浮かび上がります。
生前のやしきさんを、ぜひ観たかったなとちょっと惜しい気になりました。

それにしてもやはり角岡さんは、優れた作家です。
文章も良いし、構成力も素晴らしい。
僕は読みながら、どういう資料からどういう風に組み立ててこの文章が書けるのだろうかと、文筆作業の舞台裏に興味が向いてしまいました。

ノンフィクションはたった一行書くために、関係者に接触して、アポを取って、面談して、会話を録音(メモ)して、それを文章にしてと、実に手間がかかります。
読者の皆さんには何の関係もないことだと思いますが、そういう一行を書くために作家はものすごい努力が必要な訳です。

全体が270ページの本でも、その一行があるかないかで、本の内容の厚みがまるで変わります。
そういう作業をとても丁寧にやっている作品と言えるでしょう。

やしきさんが亡くなって、小学館NF賞の締め切りまでわずか3カ月ちょっと。
受賞が決まって本を出版するまで、わずか1カ月ちょっと。
驚異的な仕事量とスピードです。

ぜひみなさんお読みくださいと言うまでもなく、現在、大ヒット中です。
Amazonで入手可能なようです。

我が祖国は「恥の文化」か?2014年09月17日 20時53分52秒

再来週、宮崎に行って、自立生活をしておられる障害者の会で講演をする予定です。
そのためのスライドをおよそ60枚作成しました。
出生前診断に関する生命倫理を論じるものです。

障害胎児をなぜ堕胎してはいけないのか?
それには2つの理由があります。

まず、「社会の風潮」として優生思想が広まること。
優生思想が広まれば、堕胎の心理的ハードルは(特に男性は無知)、さらに下がりますから、悪循環になります。
優生思想を「是」として認める国も先進国の中に(たとえばフランス)ありますが、優生思想の欠点は、「弱者の排除」にキリが無いことです。

そして、障害を理由に堕胎することは女性にとって大変な苦痛をもたらします。
もちろん、世の中には、そうした行為に何の抵抗を感じない人もいるかもしれません。
あるいは、障害児は絶対に受け入れられないと言い張る母親がいるかもしれません。
しかし、中絶は苦痛です。
ぼくは、人工妊娠中絶をおこなった女性の手記を読もうと思ってかなり本を探したのですが、非常に少ない(無くはない)。
やはり堂々と書けないのでしょう。

ルース・ベネディクトは「欧米人は罪の文化、日本人は恥の文化」と言いました。
この「上から目線」はどうかと思いますが、日本人は罪の意識ではなく恥の感覚によって行動規範が変わるという説は、広く世界に流布しているのではないでしょうか?

だけど本当に日本人は「罪」を意識しない民族でしょうか?

日本には「水子供養」という習わしがあります。
Wikipediaで調べると、これはお寺さんの「資本の論理」によってできたみたいな記載がありますが、それは正しくないようです。
この風習は、江戸末期から明治にかけて民衆の間から自然と湧きあがり、お寺がその気持ちをくみ上げたのです。
中絶した赤ちゃんを供養するという風習は日本にしかありません。
日本人こそ罪を深く感じる民族であり、それくらい日本女性にとって人工妊娠中絶は心にダメージを与えるものなのです。
そしてその理由が「胎児の障害」であれば、母親の罪の意識はますます強くなるでしょう。

ヒルコ(蛭子)がエビス(恵比寿=蛭子)になって復帰したのは、間違いなく日本人の贖罪の念に由来しているはずです。

先日、湯島で「ちょっとハードなカフェサロン」で喋った時に、障害児を受け入れられない「個人の気持ち」は変えられなくても「社会の気持ち」は変わるという重要な指摘がありました。
はい、まったくその通りです。
ぼくの知人の産科医は、これまでに数え切れない程の数の人工妊娠中絶を経験してきました。
悩みに悩み抜いた母親と一緒になって苦しんだと言います。
その一方で、気安い気持ちで堕胎をくり返す女性もいると聞きます。

障害胎児を受容できない親に対して、首に縄を付けて無理矢理産ませることは不可能です。
ですが、社会の風潮が変化し、堕胎という行為が女性を傷つけると広く知られるようになれば、世間の風向きは変わっていくのではないでしょうか?

障害児・障害者に優しい社会というのは、健全者自身が将来に安心を見いだせる社会です。
ぼくの人生の残り時間で、ぼくが人に影響を及ぼす力などは高が知れていますが、発言を続けていくつもりです。

「改訂版 実例・差別表現 あらゆる情報発信者のためのケーススタディ」堀田 貢得2014年09月18日 21時32分43秒

実例・差別表現
分かりやすい差別表現がほとんどでしたが、「女性差別表現」のところは正直言って難しかったです。
差別というのは、する方には痛みは無く、された方は恨みを抱き続けるものです。
男性のぼくに、男尊女卑の差別感情が100%無いかと自問すれば、即座には答える自信がありません。
言葉というのは、人と人、人と物をつなぐ最良のコミュニケーション・ツールです。
死ぬまで言葉は大事にしていきたいので、「性差別表現」に関しては、これからも敏感で有り続けたいと思います。

「くもすけ」という差別用語2014年09月20日 14時52分22秒

差別表現に関する本をいくつか読んでいたら「雲助」という言葉にぶつかりました。
この言葉はタクシーの運転手さんを侮蔑する差別表現で、絶対に口にしてはいけない言葉です。
かなり昔の話ですが、漫才師の横山やすしが、運転手さんに「籠かき」「雲助」と暴言を吐いて大きなトラブルになりました。
こういった職業差別はあってはなりません。

ぼくは娘ふたりに「職業に貴賎無し」と常日頃言ってきかせています。
そして同時に言います。「だけど職業の中に一流と二流の人がいる」と。

かつて千葉大学病院の内科に、インターフェロンを使ったウイルス性肝炎の治療で世界的に有名な医者がいました。
その業績が評価されてこの人は東大の教授になりました。
この医者が千葉大在籍中、ぼくの肉親がこの医者に定期的な診療を受けていました。
ところが肉親が不思議なことを言う。
「あの先生は廊下で私に会っても絶対に私のことが分からない」と。
ぼくがなぜかと聞くと、
「だってあの先生は診療中ずっとカルテを見ていて、一度も私の顔を見たことがない」と言うではないですか。
ぼくはそんなことはあり得ないと思いました。
ところが後日、ぼくが肉親の診療に立ち会い、「小児外科の松永です」と自己紹介しても「ああ、そう」と言うだけで、本当に最後まで一度も顔を上げませんでした。

この医者はどういう医学教育を受けたのでしょうか?
まず、患者が「よろしくお願いします。」と挨拶しているのだから、相手の顔を見て挨拶を返すのが最低限の礼儀だと思います。
医者として、そして人として。

医者には視診・問診・触診・聴診・打診と診察技術がありますが、一番重要なテクニックは視診です。
患者の顔を診ないということは視診をサボっている訳です。
この医者は一流でしょうか? 二流でしょうか?

昨日、東京駅付近で作家さんや編集者さんとビールを呑みました。
会が終わって東京駅まで行こうと思って路上に停まっているタクシーに乗り込みました。
すると運転手さんは言います。
「東京駅? 勘弁してくんないかなあ?」
一瞬、運転席にチンピラかごろつきが座っているのかと思いました。
ぼくは楽しかった気分が台無しにされた気持ちで大変不愉快になり、こんなタクシーに乗るものかと降りました。
その後、別のタクシーに乗ったところ、運転手さんが「個人タクシーはああいう感じなんです」と言っていました。

なるほど、生活がかかっているから長距離の客を求めて2時間くらい路上で待っているのですね。
だったらね。
せめて「誠に申し訳ありませんが、私の生活がかかっていますので、近距離の運行はご容赦頂けないでしょうか?」くらいは言えないものでしょうか?
その運転手は、まるでぼくたちを追い払うかのように突き放したのでした。
さて、この人は一流でしょうか?

その個人タクシーのナンバーですが、しっかりとその時は網膜に焼き付けたのですが、一晩経ったら忘れてしまいました。
その後、彼は遠距離の客を見つけたでしょうか?
たくさんお金を儲けて、心も豊かな運転手さんになってくださいね。

文章のどこに「、」を打つか?2014年09月21日 21時14分21秒

目から鱗が落ちる、という決まり文句がありますが、いま僕はこの台詞を生まれて初めて使っています。
本多勝一さんの「日本語の作文技術」を読んだ時はまさにそれで、日本語の構造ってこういう風になっているんだと感嘆したものです。
この本のキモは、どこに読点「、」を打つかにあります。
僕は良い意味でも悪い意味でもこの本に強い影響を受けて、読点は最小限に減らし、なおかつ分かりやすい文章を書くこと心がけています。

この週末の二日間、僕は東京駅近傍でお酒を飲む集まりがありました。
そして偶然両日とも「文章論」になって、どこに読点を打つかの話になりました。
初日にご一緒したのは大宅賞&講談社NF賞作家の渡辺一史さんで、彼は「日本語の作文技術」は読んだものの全然参考にはせず、この本を読む時間があったら何かを書いた方がいいと思ったそうです。
さすがに才能にある人はすごいですね。
ただ渡辺さんは、第8章「無神経な文章・紋切り型」という部分には共感したそうです。
「頭を抱えた」とか「鉛筆をなめなめ書いた」とかですね。
「目から鱗」も同類でしょう。

昨夜ご一緒したのは東大小児外科の前教授です。
先生のブログは内容が素晴らしいだけでなく文章も大変うまい(僕が言うと生意気ですが)。
ブログというよりもエッセイでしょう。
それも、本として流通している数多のエッセイの中に投じても、一流のエッセイとして高く評価されるようなレベルの高さがあると思います。
で、先生はやはりどこに読点を打つか、非常に考えるそうです。
本多勝一さんのように法則を持っている訳ではありませんが、くり返し文章を読み直すことで練り込むそうです。
さすがですね。僕は別に東大にコンプレックスを抱いている訳ではありませんが、橋都先生の文章を読んでいると到底叶わないなと感じます。

現在、うちの次女(小学6年生)が小学館の「12歳の文学賞」に向けて小説を書いています。
親が手を入れると失格になりますから、ぼくは下書きを読んで感想を言うだけ。
しかし読点の打ち方が実に的確で、物語る力も大変豊か。五感を使って小説を書いている。
あ、これは僕よりも才能があるな。
将来、小説を書くのはやめようと心に誓ったのでした。

青は藍より出でて藍より青し、ですね。ちょっと紋切り型か。

「死亡退院―生きがいも夢も病棟にある」清水 哲男2014年09月23日 20時45分26秒

死亡退院―生きがいも夢も病棟にある
タイトルの通り、病院で亡くなる患者のノンフィクションです。
主人公は筋ジスの青年。

「こんな夜更けにバナナかよ」が鹿野さんの「生」を描いたとすれば、本作は、轟木青年の「死の道程」を描いていたと言えるかもしれません。

いかによく死ぬかという問題は、いかによく生きるかという問題と同じことですから、轟木さんの「死」を見つめることで、彼の「生きざま」が鮮明に浮かび上がったのではないでしょうか?

良い場面はたくさんありましたが、やはり最期に母親が面会に来る場面では胸が詰まりました。
彼が生前に作ったHPも残っています。
ぜひご覧になってください。
http://homepage2.nifty.com/htakuro/todoroki/

スーパー中学生の投書2014年09月24日 15時35分25秒

中学生の投書
23日の朝日新聞に中学3年生の投書が掲載されていました。
障害胎児の中絶をめぐるものです。
日本は障害者に対する理解や支援が不十分なので、障害児として生きるのは辛い、だから障害胎児を中絶する母を批判する前に、やるべきことがあるだろうという問題提起でした。

14歳の中学生がこうした意見を言えるというのは実に素晴らしいことです。
そして「命の授業」をおこなった学校の先生も本当に立派だと感じ入りました。

ぼくが14歳の時など、一体何をやっていたか?
好きなミステリーを読んで、(この時期だと)文化祭に向けて8mm映画の脚本を書いてフィルムを回して、、、、。
「障害胎児」という言葉や「中絶」という言葉など、口にしたこともなければ、考えたこともありませんでした。

こうしたスーパー中学生がどんどん増えていけば、日本は、弱者が大事にされる立派な国になっていくと思います。
ご両親も学校の先生も、このお子さんを誇りに思って良いでしょう。

さて、僕はもうちょっと議論を深めた方が良いと感じました。

養護学校(特別支援学校)制度ができたのが昭和54年。
健全者と障害者は完全に分離されたまま現在に至っています。
障害者がどう生きているか、見えにくいでしょう。
そしてやはり僕のような医者でないと、どのような障害児が中絶されているか、実態が分かりにくいでしょう。

その部分を補足する形で、朝日新聞に投書しました。
26日(金)に掲載予定ですので、興味のある方はご覧ください。

アマチュアだけど・・・良いカメラを2014年09月25日 21時10分24秒

今日の音々
特別カメラに詳しい訳ではありませんが、最小限の知識は持っていると自分では思っています。
先日まで4台のカメラを保有していましたが、いろいろな事情からこれらを整理している最中です。

最終的にはソニーの1インチ・コンパクトデジカメとオリンパスのマイクロ4/3が1台ずつ残る(買い換える)予定です。

僕はこれまでに4冊の本を上梓しましたが、最後の2冊に関しては自分で撮影した写真を数枚、本に掲載しました。
ま、腕前は大したことはないのですが、被写体が素晴らしいのでそれなりの写真に仕上がっていると思います。
つまり、僕の技術は完全にアマチュアですけれども、良いカメラが欲しくなるということです。
いや、アマチュアだからこそ・・・と言うべきかもしれません。

ミラーレスにはいろいろな規格、いろいろなメーカーが参入していますが、ぼくがオリンパスのマイクロ4/3を選んだ理由は、ずばりレンズです。
レンズというのはかなり高価。
上を見ればキリがありません。
そうした中にあって、オリンパスは(さすがカメラメーカーということもあって)レンズのC/Pが高い。
ちょっとずば抜けているのではないでしょうか?
パナソニックも良いレンズを出しているのですが、少々高い。
しかし、両者は互換性がありますので、カメラ本体は「手振れ機構」が備わったオリンパスが良いとなったしだいです。

デジカメはいまや完全に「家電」です。
だからカメラ本体はソニーやパナソニックの方がよくできています。
しかしオリンパスにはフィルムカメラ時代からの伝統がありますから、やはりデザイン力は「家電」を凌駕します。
もちろんこのあたりは個人の好みの問題ですけども。
悲しいことにカメラ本体は、購入して1年もすると中古店に買い取りをお願いしても大した値段になりません。
ところがレンズは値崩れしない。
だからどういうレンズが自分に相応しいか、よく用途を考えて選び抜くことが重要です。

運動会で自分の子どもをカメラに収めようと考えている保護者の方も多いと思います。
だけどカメラって基本は静止しているものを撮影する装置なんです。
走っている我が子を撮影するのは至難の業ですよ。
相当、カメラの知識がないと無理だと思います。

それから生まれたばかりの赤ちゃんを撮影したいと思っているパパ・ママ。
フラッシュは赤ちゃんの目に悪くないの?と聞かれますが、そもそもフラッシュなんて必要ありません。
良いカメラを買って「発光禁止」に設定して、思う存分赤ちゃんを撮影してくださいね。