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生きることの意味2023年12月31日 09時06分02秒

生きることの意味。
生きるために働いているのか、働くために生きているのか、ときどき分からなくなる。
労働はぼくの人生の大部分を占めている。
労働に喜びがあるかというと、以前はうまく答えられなかった。それは不本意な形で大学病院を辞めたからだろう。

解離性脳動脈瘤を発症したのだから、これは明らかに労災だろう。
当時は大学病院に対する怒りや不信感があった。今も少しある。
そして手術ができなくなったことに対する未練をずっと持ち続けている。
ただ、ぼくが辞めた頃、千葉大でも内視鏡手術が行われるようになってきていた。
ぼくはああいった手術は嫌いなので、考えようによっては、良いタイミングで辞めたのかもしれない。

開業医という仕事になかなか慣れず、悪戦苦闘の連続だった。
でも最近になり少しずつ意識が変化しつつある。
働くとは、別にそんな楽しいものでは本来ない。
楽しいに越したことはないが、誰かの役に立とうと歯を食いしばって頑張るのが労働だろう。
そのしんどさをくぐり抜けて、人は自己実現していくのではないか。

開業医は高いレベルの医療は行わない。
でも多くの患者を診る。
1日に100人は当たり前で、150人以上を診ることもある。そして中にはものすごく軽症の子もいる。
しかし親から見れば「心配だから」受診しているのである。
100人の受診には100の心配がある。
それを解決していくのが開業医の仕事だろう。
100の心配を解消して、地域医療に貢献できれば、それはそれで「やりがい」と言ってもいいように思えてきた。

善く生きるとは、善く働くことで、それは人間として患者に誠実であることだろう。
たとえ何人患者が来てクリニックが忙しくても、一人一人の患者に誠実に対応することが善く生きることになるのではないか。

子どもには学ぶ権利がある2023年10月27日 22時06分12秒

クリニックではときどき不登校の相談を受けることがあります。
ぼくは専門家ではないので、「こうしなさい」とは言いません。
しかし「個人的にはこう考えています」という話をします。

結論から言えば、学校に行けない子は、どうやっても行けません。学校まで引きずって連れて行っても何の意味もありません。
親御さんは、勉強が遅れることが心配なんだと思いますが、子どもはあとでちゃんと取り戻します。

うちには子どもが2人いますが、2人とも不登校の時期がありました。
確かに親はつらい。その気持ちはよく分かります。
子どもを学校に行かせるために怒鳴っても、喚いても、何の意味もありません。

上の子は進学校に通っていました。学習レベルが高いので、学校を休めばどんどん置いていかれるはずですが、大学受験のときには、東大選抜クラスに入っていました。
下の子は、高校にまったく行っていませんが、自学自習で国立大学に合格しました。
人生どうにかなります。

現在、学校に行っていない小中学生が30万人いるそうです。
教育は学校だけではありません。自由で、多様なものです。
義務教育という言葉がありますが、子どもは学校に行くことが義務という意味ではありません。
子どもには教育を受ける権利があるんです。
昔はなかったから、そういう決まりが作られたわけです。
そして親や地域や行政は、そうした子どもの教育を受ける権利を守る義務があるのです。

滋賀県東近江市長は、「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」「善良な市民は、嫌がる子どもを学校に押し込んででも義務教育を受けさせようとしている」と言ったそうです。

またこうも言っています。「不登校の大半は親の責任」
市長は謝罪の意を表しましたが、発言は撤回しないそうです。
あまりにも軽率。あまりにも無知。
不登校のことや、フリースクールのことを知らないなら黙っていればいい。
市長とか「エライ」人になると、傲慢になるという典型ですね。
悲しいですね、東近江市。
そんなところには住みたくありません。

小児かかりつけ診療2023年10月18日 22時22分16秒

日本の医療はフリーアクセスといって、どこのクリニックを受診しようが自由です。
しかし、小児医療では、「かかりつけ」という大事な働きがクリニックに求められています。
患者さんも、自分のかかりつけクリニックを受診すべきです。
また、かかりつけ医は、患者さんを「受診者の数が多い」からと言って断るべきではありません。

数年前から「小児かかりつけ診療」という制度ができました。
患者家族に書面で説明を行い、同意を得ると、かかりつけ医になります。すると、かかりつけ医としていろいろな責任が生まれます。
でも、1回の受診にあたって約300円の報酬を医師は支払基金から得ることができます。
300円というのは、途方も無い金額です。
うちのクリニックは、年間16,000人以上の患者が来ますから、これに300円をかけると、480万円以上になります。
すごいですよね。

だったら、かかりつけ医は、自分の患者をしっかり診て、また、患者も困ったことがあったらかかりつけ医を受診してほしいと思います。

なお、かかりつけ医になるにはいくつか条件があります。そのうちの一つが、夜間や休日の診療をしていることです。
みなさんご存知のように、私は体が弱いので、夜間救急や休日診療所で働いていません。
したがって、私はかかりつけ医として、特別にお金は受け取っていません。
でも、診療時間内にお見えになる患者はすべて診るようにしています。
毎日100人以上の患者さんを診ていますが、体が壊れない限りは続けようと思っています。
でも、限界を超えたときは、どうかご容赦くださいね。

すぐれたノンフィクション文学とは何か?2023年10月06日 21時51分26秒

最近になって、すぐれたノンフィクション文学とは何だろうと考えるようになりました。
昨年度までぼくは大宅壮一ノンフィクション賞の予備選考員を務めていました。
(最小で)1〜(最大で)5冊のすぐれた本を事務局に提出するのですが、このとき必ず「取材が深い」かどうかを選考判断に加えていました。
昨年大賞を受賞した『黒い海』はめちゃくちゃ取材が深くて、よくこういう本を仕上げることができたものだと感嘆しました。
当然、最高点をつけて推薦しました。

でも、最近思うのです。取材が深いことがそれほど立派なことなんでしょうか。
取材は手段であって、その本の本質ではないと思います。
取材の分厚さが高評価に直結してしまうと、長年取材した本が自動的に高評価になってしまうのではないか。それってちょっと違うと思う。

やはり本は基本的におもしろくなくてはいけないし、ノンフィクションには「こんな世界があったのか」という驚きがなくてはいけないと思うのです。
そしてさらには、読者の価値観と人生観を変える力がないといけないと思うようになりました。

つまり、すぐれたノンフィクションの3要素は「おもしろさ」「おどろき」「力」なのではないかな。
そして「おもしろさ」には「文章のうまさ」が相当関係すると思うし、「おどろき」には本を書く「着眼点」みたいなものが必要で、「力」を持つためには事実を追うだけではなく、筆者の「立場」「とか「思想」が試されると思います。

あまり取材の深さや資料の読み込みの多さを評価し過ぎると、賞が努力コンテストみたいになってしまうんじゃないかな。
そういう意味で言うと、『彼は早稲田で死んだ』(樋田毅)が大宅賞を取ったのは良かった。あれは言ってみれば「回想記」でしょう。
文献は参照しているけど、大掛かりな取材をしたわけではない。

ノンフィクションの3要素の一つに「おどろき」を挙げましたが、何十年も生きると「おどろき」ってあまり無くなっていくんですよね。
若い頃は何も知らなかったけど、歳をとるとさまざまなことを知るようになります。
すると、ちょっとノンフィクション作品を見る目が厳しくなってしまうんですよね。

危うい保険証廃止2023年09月13日 19時30分04秒

今年の3月末に、マイナンバーカードを保険証の代わりとして読み取るカードリーダーの器械と、システムを動かすノートパソコンを設置し、4月からオンライン資格確認を始めました。

50万円かかりましたが、これはお上の命令なので、うちとしては従わないわけにはいきません。

今のところ、マイナカードを持ってくる人は大変少ない状況です。
持っていても顔認証がうまくいかなかったり(子どもは変顔してしまうので、認識されないことも多々あり)、暗証番号を忘れている保護者も多数という感じです。

さて、これまでは保険証を目視で確認してきました。
器械で確認ということならば便利かもしれません。
しかし先日、ノートパソコンがいきなり動かなくなってしまいました。
業者さん(NTT)にすぐに連絡を取りましたが、基板交換の修理までに5日かかりました。
これがもし、保険証が廃止される2024年秋以降に同じことが起きたらどうなってしまうのでしょうか?

厚労省に尋ねたところ、患者家族からとりあえず3割の窓口負担(未就学児は2割)の金額をいただくそうです。
子ども医療費助成制度は使えず、患者家族に後日来ていただき、差額を精算するとのことです。
5日間、システムが動かなければ数百の患者家族に迷惑をかけることになります。
まじか!
「忙しい診療の合間に、そんな多くの家族に後日精算なんて、現実的にできると思いますか」と尋ねましたが、「あのー、このー、そのー、上の者にそういう意見があったと伝えておきます」とうやむやにされました。

デジタル化と言えば聞こえはいいのですが、いつ故障してもおかしくない単なるパソコンに頼るのは、結局は患者家族に不利益になるのではないでしょうか。

朝鮮人虐殺から100年2023年09月01日 20時50分04秒

100年前、関東大震災で多くの人が被災して亡くなりました。
同時に流言飛語に惑わされた日本人によって多くの朝鮮人が殺されました。
日本の歴史において大変痛ましく悲しい、そして醜い過去の事実です。

1974年から日朝協会などによって、墨田区の公園で追悼式が行われてきました。
石原慎太郎氏ら歴代の都知事は、知事名で殺された朝鮮人に対する追悼文を送付してきました。あの、石原さんですら、です。

小池知事も都知事に就任した16年には追悼文を寄せています。
「多くの在日朝鮮人の方々が、言われのない被害を受け、犠牲になられたという事件は、我が国の歴史の中でも稀に見る、誠に痛ましい出来事」と書かれていました。

ところがどういうわけか、翌年以降、追悼文の送付をやめています。なぜでしょう。

小池さんは8月18日の会見で「大震災で犠牲となったすべての方々に哀悼の意を表している」と述べました。
え? すべての方々?
被災での死と、デマに踊らされた悪意の虐殺では意味が違います。その背後には、民族差別の感情もあったはずです。

今年2月の都議会では、小池さんは「何が明白な事実かについては、歴史家がひもとくものだ」と述べています。
これは侵略とは何かという問いに、歴史家の判断に委ねると答えた安倍さんのロジックと同じです。

いわゆる保守と言われる政治家は、「日本」とか「国家」とかを異常なまでに擁護しますので、過去の過ちを消そうとします。
歴史を修正して、美しい日本にしようとします。
それが本当の愛国でしょうか?
過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる。これが歴史の真理でしょう。

朝鮮人虐殺の有無を明確に語らぬ姿勢は卑怯です。
こうした態度が真に愛国的だと言えるでしょうか。
現在にも盲目となれば、未来を見通すことなど絶対にできません。

これからの政治と科学の関係性2023年08月26日 08時50分48秒

現在、コロナが大流行中です。5類に分類されても、ウイルスの性質は何も変わっていません。
コロナ後の世界は来るのでしょうか?

この先、私たちはどう生きていけばいいのか。
最も大事なのは、政治とサイエンスの相互関係です。
政治家が科学に無知あってもしかたないと思います。であれば、政治家は科学を大事にして欲しいと思います。

安倍さんが言った「日本モデル」とか、麻生さんが言った「民度のレベルが違う」というのは、何だったのでしょうか。
科学者から見れば意味不明です。

科学者たちが懸命に科学的ファクトを積み上げて、コロナをどうやってコントロールしようかと力を注いでいる中で、政権にある人間がコロナを収束させたのは自分たちの手柄みたいに言うのは、非常に危険です。

大きな自然災害はこれからも起こるし、疫病のパンデミックもこれからも起こりうる。それにどう対応するかと言えば、方法は科学しかないわけです。

河川の氾濫があればすぐにダムを作れ!では、これからの社会は成り立っていかないでしょう。
政治家は科学に対してもっと謙虚になって、科学的な政治をやる必要があります。

これからの政治は懸命に経済の復興に努めて、原状回復を目指すでしょう。
しかしそれでいいのか? これを機会に政治が何を目指すのか、根底からもう一度考え直してみる必要があるのではないでしょうか?

日本は一人あたりのGDPが低く、大学進学率も高くありません。つまり日本は貧しく、低学歴の国なんです。世界のイノベーションからは完全に遅れており、GAFAのような企業が生まれてくる土壌はありません。
ベンチャー企業が飛び抜けて出てくる社会構造でもなく、ユニコーン企業もほんのわずかです。

このままジリ貧を選ぶという選択もあるかもしれません。しかし本当にそれでいいのか?
いまの政治は、どういう国の形を目指すかというビジョンを示しません。憲法9条に自衛隊を明記するということや、「こんな人たちには負けない」ということにものすごいエネルギーを使います。
大事なことが抜け落ちていると思います。

この30年で政治は停滞し、この20年で、私たちの祖国の社会構造はメチャクチャになりました。
コロナが去った後には、ただ現状を回復するのではなく、地球全体が抱えている問題を解決に向かって政治が動くこと、「物を作って消費して儲ける」から「人が生き延びることができる」社会へ変革して行って欲しいと願います。

立憲民主党はだらしないか?2023年08月08日 21時00分31秒

評論家とかコメンテイターとかオピニオンリーダーとかは政府自民党を批判するとき、返す刀で「でも、野党もだらしない」と必ずセットで批判します。
この場合の野党とは、立憲民主党のことでしょう。
与党も野党も批判すれば一見公平に見えますが、権力を持たない野党を批判しても世の中はちっとも変わりません。
野党批判をすればするほど、それは「現状維持」ということですから、結局自民党を応援していることと何ら変わりありません。

確かに立憲民主党の支持率は5%くらいしかありません。
一方で、維新の会はそれを上回り、次の総選挙では野党第一党をうかがう勢いです。
維新の会は、不祥事が大変多く、議員の質がよくありません。
急場凌ぎで候補者を集めているからでしょう。
その維新の会は、次の選挙で自公政権が過半数割れした場合、連立も考えるそうです。
自分たちのことを「第二自民党」と言っているのですから、当然の結論でしょう。

なぜ、立憲民主党が不人気で、維新の会が人気なんでしょうか?
それは維新の会が、「第二自民党」だからだと思います。
要するに日本人は自民党が大好きなんです。

アメリカは分断国家と言われます。
ものすごくリベラルな人たちがいるかと思えば、トランプさんを強く支持する超保守的な人たちもいます。
ま、半分ずつという感じでしょう。
では日本はどうでしょうか?

日本人は「国家」とか「家族」とか「血筋」とか「伝統」とか「しきたり」が大好きで、従来の価値観を変換することを非常に嫌います。
つまり、国民のほとんどが保守的なんですね。
「人権」とか「多様性」とか「個人」とかを大事にするリベラルな人たちは、超マイナーです。
だから、立憲民主党は支持率が5%しかないわけです。
これは立憲がだらしないわけではなく、国民性を反映しているだけのことです。

維新は自民党の補完勢力ですから、自民党が不祥事や政策ミスで支持率を落とせば、その分を維新が取っていくわけです。

日本人の大多数の人は、なぜ「人権」が大事なのか理解できていないと思います。
地方に行けばこの傾向はますます強いでしょう。
では、東京はといえば、都民なんてほとんど地方からのおのぼりさんですから、東京都が人権意識が高いということはありません。
つまり日本人はみんな悪い意味で「田舎」の人なんだと思います。
ジャニーズの問題を見ても、ウィシュマさんの問題を見ても、よくわかるでしょう。

幡野広志さんの安楽死論に反応する2023年07月05日 20時26分56秒

岩永直子さんの『言葉はいのちを救えるか?』を読んでいろいろと考えました。
その中の一つが、幡野さんの安楽死論です。
幡野さんが写真家であること、血液のがんで闘病していることは知っていましたが、安楽死論を広く展開していることは、この本を読むまで知りませんでした。
ぼくは医師として幡野さんの言いたいことは大変よく分かります。
だからこれは「反論」ではなく、「反応」したに過ぎません。

安楽死とはなんでしょうか?
それは死を直前にした病人に対して致死量の薬物を投与して患者を死なせることです。
苦しむ前に死ですべてを終わりにするのです。
もう一つは患者が自殺するのを医師が幇助することです。

ぼくは、安楽死というシステムが日本で合法になることに賛成していません。
1番の理由は、誰が「それ」をやるのか?という疑問があるからです。
漫画のドクターキリコのように、死を請け負う医者がいて、殺し屋のように患者のもとに現れるのでしょうか?
そんなことは日本ではありえないと思いますよ。

安楽死をやりたいなんて考えている医師なんて日本には全然いないと思います。
いたら、そいつはトンデモ医のような倫理観が麻痺した人間でしょう。
大学の医学教育で安楽死の方法を授業でやり、それを試験で点数化するなんてあり得ないです。
だからあと30年経っても日本では安楽死は合法化されないと思います。

ですが・・・日本の臨床の現場では事実上の安楽死はどこでも行われていると思います。
調査をしたわけではないので、正確な統計はありませんが、今の日本で無意味な延命なんてまったく行われていないと思います。

ぼくは医師として子どもの死に100回以上立ち会ってきました。蘇生をしたのは、2回くらいです。いずれも外傷ですね。
それ以外はがんの末期などですから、そこから回復することは100%あり得ません。
いかに子どもに苦痛を与えず、家族の心に傷を残さず、そればかりを真剣に考えていました。
だから、最期はとにかく苦痛の除去です。麻酔科の医師にも手伝ってもらいましたが、ほぼすべて自分たちで徐痛をしていました。

具体的にどういうことをしたか、それはちょっと公の場では言えません。
でも、ぼくが行った終末期医療に不満を持った家族はいないと思います。
子どもたちも苦しまなかったと思います。

そういう意味では幡野さんは、ちょっと心配しすぎなような気がします。
主治医とよくコミュニケーションをとれば、疑問は消えるでしょう。
終末期に殺人医が登場する安楽死よりも、主治医が一生懸命に患者の痛みのことを考える医療の方が現実的だと思います。

ただ成人医療では課題が一つあって、それはスピリチュアルな痛みです。
がんの末期で全身が痛い・・・というもっと前の段階で、寝たきりになるとか、排尿排便の世話を他人に委ねる、こういうときに自分は一体何のために生まれ、生きてきたのかと魂が痛くなることがあります。
ここは小児医療と違っています。
だから、幡野さんの安楽死論もこの段階での「痛み」を最も問題にしているんだろうと思います。
これに対しても医師の中では、スピリチュアルケアが進んでいます。
そういうことに期待してもいいのではないでしょうか。

ぼくは死ぬときは病院で。鎮痛と鎮静をたっぷり使って。
苦しんでいるところを、子どもに見られたくありません。

「週刊現代」から嫌がらせを受ける2023年06月21日 20時40分18秒

『週刊現代に揶揄される』
今週の週刊現代に医療特集が載っていました。
その中に開業医に関する本音の話があります。そこには、こんな文章があります。

「町医者の本音? 私は開業医です! 町医者という無神経な言葉を使う記者の取材は受けられません」
町医者の本音を取材しようとしてコンタクトをとった医師の一人は、こう怒りをあらわにした。

この医師というのは、ぼくのことだと思います。
週刊現代から取材依頼があり、町医者という言葉を連発していたので、取材はお断りしました。
それも取材の期限が明日までという非常識なものでした。

町医者という言葉は「無神経」というレベルではありません。
『記者ハンドブック 新聞用字用語集 第14版』を参照すると、「差別語・不快語」の中に「町医者」が入っています。
「農民」の人を「百姓」と言うのと同じですね。

文章を書くことを商売にしているヤツがそんなことも知らないのでしょうか?
そうであれば、はっきり言って記者として半人前だと思いますし、それを揶揄して記事にする編集長もレベルがどうかと思います。

ま、取材をお断りしたことへの意趣返しでしょうね。
なんてちっぽけな人間なんでしょうか?
今後、死ぬまで『週刊現代』には協力しないとここで誓っておきましょう。