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システムを一新2010年12月12日 16時40分56秒

我が家の無線LANの調子が悪く、また、マック本体も何だか異音を発するようになりました。
けっこう長く使ったので、そろそろ限界かもしれません。

そこでシステムを一新。

新しいiMacと無線LAN。
データの移行も問題なく終了。

今度のマックはとにかく液晶がきれい。
目の疲れ方がおそらく全然違うと思います。

かつては100万円したマックも今は10万円。
隔世の感があります。
しばらくこの機種を使い倒しましょう。

余りの寒さに2010年12月13日 22時51分40秒

今日の午後は本当に寒かった。
うちのクリニックは鉄筋作りで、冬は本当に冷えるんです。
だけど、暖房を強く入れすぎると頭の回転が鈍るので、このあたりの調整が難しい。

それはともかく、午後の診療に訪れた患者さんは大多数が17時30分の受付終了間際で、おそらく余りの寒さに診療をためらっていたのではないでしょうか?

さて帰宅すると、僕の書斎はなんと18℃。
これは寒い。
仕事にならないので、布団にもぐって読書することにしました。

冬は苦手。
寒いのは本当に嫌いです。

死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの(日本評論社)堀川 惠子2010年12月14日 21時50分50秒

死刑の基準
裁判員制度と光市母子殺害事件をとっかかりにして、死刑の基準となっている永山事件を描いています。

大変おもしろい本で、一気に読んでしまいました。

おもしろいのは、永山則夫と彼の妻(獄中結婚)を描いた部分で、最終章の「永山基準とは何か」という部分は、人間を描いているのではないため、正直なところあまり興味をもつことができません。

エピローグで、筆者は光市の殺人犯人に面会に行きますが、そこでの会話も本書とはちょっと関係ないかなと思います。

永山則夫の生涯を描いた本はほかにもあるのでしょうが、この本は元・妻や裁判官にインタビューを十二分にしており、ノンフィクションとしては第一級だと思います。
ですから、最終章は不要だったし、テーマも「死刑の基準」でないほうがさらに良かったと思います。
ま、この辺は読者の好みの問題かもしれませんし、作者と編集者がどのような作戦会議を練ったかにもよります。

傑作ですので、一読をお勧めします。

清水文七教授の手紙2010年12月15日 21時28分02秒

休診日の今日は千葉大病院へ行ってきました。

患者さんの診察をして、お昼にちょっと時間ができたので、歩いて10分ほどの医学部まで行きました。
行き先は、分子ウイルス学教室。
僕が「博士号」を取得するために、青春の3年間研究した場所です。

現在の教授はS先生。当時は僕の指導教官。
そして、S先生や僕のお師匠さんにあたるのは、清水文七(当時)教授です。

清水先生とS先生に分子生物学の手ほどきをみっちりと受けて、僕は小児がんに関する英語論文を多数発表しました。
そのインパクト・ファクターは今でも日本の小児外科の中でトップランクでしょう。
すべては清水先生とS先生のおかげです。

この感謝の念は年とともに増すことはあれ、薄れることはありません。
その清水先生も病に倒れて2年くらい経ちました。
今日、S先生のところに伺うと、清水教授がS先生に宛てた手紙を見せて頂くことができました。

本文はワープロでうった短い文章。
そして封筒の宛名は清水教授の直筆でした。
指が震えて、細かく左右に線が揺らいだ文字ですが、しっかりと千葉大学の住所とS先生の名前が書かれていました。

その震えた文字を眺めていると、なんとももの悲しく、胸が痛いような気持ちになります。
さぞや不自由な生活なのだろうと思いますが、ワープロで書かれた短い文書には、最近、本を書いたから見てほしいと。
それは素晴らしいことです。

梅棹忠夫先生だって失明してから膨大な書籍を残しています。
清水先生にだってできないはずはありません。
ぜひ、本が出版されること祈念しています。

しかし清水先生、無理はなさらないで、いつまでもいつまでもお元気でいてください。

「リハビリの夜」 (医学書院) 熊谷 晋一郎2010年12月16日 20時48分52秒

リハビリの夜
第9回新潮ドキュメント賞を受賞したということで、興味を持って読み始めました。
カバーのデザインも独特の味があって良いし。

ところが読んでみると、本の魅力がよく理解できない。

それはなぜでしょうか?
僕が医者だからですかね?
妙に分かりすぎる部分と、理解できない部分が混ざっているのかもしれません。

いずれにしてもこういった専門書が賞を受けると言うことは、ドキュメント(ノンフィクション)の幅をひろげるという意味で良いことかも。

でも、もっと違った書き方があったのではとも思ってしまう。

ま、なんとも難しい本ですね。
ちなみに、タイトルの「リハビリの夜」というのはセンスが良いと思います。

300万円の借金を背負った医者2010年12月17日 12時49分17秒

清水文七教授に対する恩は、学問のことだけではありません。
生活の面倒もみて頂きました。

大学院へ進学すると、(当たり前ですが)授業料を支払う必要があります。
大学病院の「医者」という身分は消えますから、給料がなくなります。
そこで、医局(この場合は小児外科)がアルバイトを用意してくれる訳です。
僕は毎週、某病院へ手術の手伝いへ行って、月収68000円を得ていました。
アルバイトを用意してもらいながら、こんなことを言うとバチが当たるかもしれませんが、やはり月収68000円の生活はきつかった。
僕の下宿の家賃が42000円でしたからね。

しだいに生活が苦しくなり、食費も切り詰めるようになります。
その窮状を見かねて、清水教授が「日本育英会」の奨学金のことを教えてくれて、一緒に事務まで行ってくれて手続きをしたのです。

3年間に頂戴した奨学金はおよそ300万円。
これを無利子で、20年かけて15万円ずつ返却します。
なんと有り難い制度でしょうか。

この300万円がなければ、僕はアパートで餓死していたかもしれません。

大学院を修了して、「医者」に復帰した時は、貯金=0、借金=300万円でした。
ま、ちょっと今の若い先生には想像のつかない世界だと思いますが、あの苦しい環境の中で情熱だけで生きていたから、僕は人様に自慢できる業績を挙げることができたのだと思っています。

インフルエンザの予防接種も2010年12月18日 17時20分28秒

インフルエンザの予防接種も、今日で大きな山を越えました。
あとは、来週、平日に何回か接種して終了です。

今年は例年にくらべて10%くらい、接種枠を縮小しました。

理由は二つあって、一つは、枠をいくら広げてもうちのクリニックに通っている人、全員に接種することは不可能ということ。
もう一つは、僕が老化したため、1日に100人にうつのは、正直しんどいからです。

そんな訳で、多くの患者さんにお断りすることになってしまいました。
本当にご免なさい。

しかし、ま、これは愚痴ですが、今年も「無断キャンセル」が5%くらいの割合で存在します。
クリニックから患者さんの自宅に電話をかけても、留守だったり、「あ、キャンセルで」とか。
直前に注射を用意して待っているので、これは捨てることになり、完全な無駄となります。

他の人を断っておきながら、注射液を捨てるのは本当に虚しい。
何か良い改善策はないですかね?

某クリニックは、「直前キャンセルは料金を頂きます」とHPに表示していました。
僕が言っているのは、お金のことではなく、人間同士の信頼関係です。
そういう患者さんがその後でクリニックに来ると、僕はどういう顔で診療をしたらいいのか、よく分かりません。

気にしなければいいのか。

クリニックはもうそろそろ2010年12月20日 21時43分31秒

先週の土曜日にクリニックの忘年会を終えて、我がクリニックもそろそろ店じまい・・・・と言いたいところですが、混雑は相変わらずです。

今日はおよそ100人の患者さんがお見えになりましたが、夕方になるほど「発熱」や「喘鳴」の重い患者さんが増え、一人一人の説明に時間がかかりました。
レントゲンも撮影したし、採血も行いました。

終了時間はいつもよりも大幅に延びてしまいました。
ですが、こんなことは医療では当たり前。
医者は患者を診てなんぼ(儲かるという意味ではまったくない)ですから、患者を診ることができるというのは、医者にとって幸せと考えるべきです。

ですが、正直なところ、疲労がたまるのはその通りで、21時頃にいったん眠くなってしまいます。
本来ならば、この時間帯に本を読んだり、文章を書くのですが、脳の活動がダウンします。
これには疲労の問題だけでなく、もう一つ、内服している薬のことが絡んでいるのですが、それはまた今度書きましょう。

大晦日まであと10日ほどですから、明日以降は少しずつ2010年を回顧してみましょう。

ちなみに今日お見えになった患者さんの診察券番号が6500になりました。
開院して4年半ですから、毎年1400人くらいずつ増えている計算になります。
この数字は多いのか、少ないのか、僕にはまったく分かりませんが。

2010年回顧・健康2010年12月21日 19時17分45秒

この1年を振り返ると、自身の健康問題に悩み続けた1年と言えます。
何度もブログに書いたように、手足の痺れです。
一時はあまりの腕のだるさにキーボードを叩けないほどになりました。

きっかけは、昨年9月に出版した「命のダイアリー」のゲラのチェック。
詳細は書きませんが、こういった単純作業に関して僕は異常なまでに集中力を発揮してしまいます。
この作業が終わったら、首が猛烈に痛くなっていました。

やがてそれは背部痛へ。
そして左腕の痺れに。

整形外科を受診して、頸部椎間板ヘルニアという診断にものすごく納得しました。

ところが痺れは、右腕に広がり、やがて左足。
さらには右足にも。

整形外科の治療はほとんど無力で、鍼・灸・ラジオ体操・漢方薬・ホットパック・モノレール通勤、そして最後に気功。

朝起きてから、夜眠るまで、常に痛みと痺れで頭がいっぱい。
こういう状態が1年近く続きました。

もしやこれって「神経内科」の病気?
「死に至る病」?などと考えました。

そして神経内科を受診。
ドクターは、「よく分からん」と。
僕はそこでほっとして、「じゃあ、神経内科の教科書に載っている病気ではないのですね?」
「その通り」
「僕みたいな、訳の分からん訴えをする患者って多いのですか?」
「多い。神経内科はそういう患者を治すのが仕事」
この言葉には本当に安心できました。
そして神経内科のドクターが「試しますか」と提案した薬は、何と、「てんかん」を抑える薬でした。

毎日、全身に湿布薬を貼るほどひどかった僕の痛み・痺れは、薬を内服した初日に消えました。
現在も服用を続けています。

ただ、難点は薬を飲んだ夕食後に眠気がやってくることです。
ま、しかたありません。

結局、診断名は不明。
要するに僕の頭の中には過剰な電流が走りすぎているということでしょう。

ドストエフスキーもゴッホも黒澤明も「てんかん」だったそうです。
いやあ、ちょっと照れますね。

2010年回顧・内省2010年12月22日 21時37分29秒

自画像
2010年のプライベートを振り返ると、詳しくは書きませんが、僕から見ると、我が家の「家族の形」とか「家族の関係」には揺らぎがあったような気がします。

原因は何かというと、僕がこの歳になっても未だに成熟した人間になっていないからです。

黒澤明監督は猛烈な癇癪持ちで、それは本人に言わせれば、持病の「てんかん」のためだったそうです。

僕が癇癪持ちかどうかは、よく分かりませんが、若い頃は、看護師や患者からは「怖い医者」だったようです。
ですが、それが「てんかん」のせいかというと、そうではなく、僕自身の育てられ方が、僕を作ったのだとしか言えないと思います。

家庭環境や、学校環境、職場環境。
二流の師に教わった弟子は、一流になることはできません。
僕が自分のだめな部分を、人のせいにする訳ではありませんが、僕は立派な人間になろうと努力を続けていますが、どうしても成長できない自分がいます。

一番ダメな部分は、「寛恕の精神」です。
人を許すことが下手。
分かりやすく言えば、「根に持つタイプ」です。
人が人を制する最後の力って、許す能力だと僕は思います。

これに欠ける僕は人の上に立つタイプの人間ではないのでしょう。

「てんかん」で思い出したのはゴッホの自画像。
そう言えば、僕も医学生の頃から、医者になってしばらくまでは、木炭画で絵を描いていました。
上の写真は、25年前に書いた医学生の僕。

痩せているし、ラグビーをやっていて、口ひげを生やしていました。
どうですか?
ちょっとカッコ良すぎるでしょうか?