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さようなら、照井慶太・照井エレナ2023年09月25日 19時32分06秒

さようなら、照井慶太・照井エレナ
照井慶太医師が自治医大の教授に就任予定と聞いてびっくりしました。
え? それって本人の希望なの? それとも大人の事情?
まさか単身赴任?

後輩の武之内先生に尋ねたことろ、栄典だそうです。そしてエレナ先生も子どもを連れて栃木に行くとのことです。
それを聞いて大いにホッとしました。
栄典か。おめでとう。

照井先生が小児外科に入ってきた年は、ちょうど大沼先生が教授に就任した年でしたから、ぼくは非常によく覚えています。
天才でも秀才でもなかったと思いますが、真面目で一生懸命な研修医だったと思います。
人として魅力があって、ぼくとは10年以上年齢が離れていますが、一緒にいて楽しい奴でした。

この年は、小児科からエレナ先生が小児外科に転科してきました。ぼくはエレナの指導教官になり、メスの握り方からすべてを教えました。
そして学生時代から付き合っていた、照井とエレナは結婚。
二人に対してぼくは、論文指導もしましたが、手術をたくさん教えたと思います。
素直で純粋で、本当に可愛い後輩でした。

照井は同時にぼくのお師匠さんでもあります。それはJAZZの師匠。
40歳でJAZZに目覚めたぼくは、医学部JAZZ研の部長だった照井から、多くの名盤・名曲・名プレイヤーについて教わりました。

44歳でぼくは、病気で外科医が続けられなくなり、開業医になりました。
でも、照井夫婦との友情は続きました。
開業医になったぼくは、小児外科の最先端の知識から徐々に離れていきましたが、時々一緒に飲みにいく、これも大好きな後輩である武之内先生から、照井が横隔膜ヘルニアに関して多施設共同研究を行い、日本全体の治療成績を改善させたことを知りました。
なるほど、そういう才能があったのか。確かにそうかもしれない。
ぼくは大学を辞めて本当によかったと思いました。
ぼくが辞めるということは、その枠を誰かが埋めるということです。つまり人が育つ。こんなに立派に育ってくれて、ぼくは本当にうれしい思いでした。

写真は、2011年に、照井夫婦と東大小児外科の元教授の橋都先生と一緒にJAZZを聴きに行った時の1枚。
楽しかったなあ。

今回の照井の旅立ちにあたって、ぼくはイタリア製の万年筆を贈りました。
ペンがあれば、いつでも手紙でつながることができるでしょ?
そういう思いからです。

でも。でも、やはり、今後二人に会える日がいつ来るのかを思うと、一体それがいつなのか想像がつきません。
ぼくはどんどん歳とっていきますので、遠くまで出かけるということがだんだんできなくなっていく気がします。
そう思うと、めちゃくちゃ寂しい。
こんなことなら、もっともっとたくさん飲みに行っていればよかった。
なんだかこういう文章を書いているだけでも泣けてくる。いい歳して情けない。ばかだなあ、本当に。

さようなら、元気で。
そしていつかまた会える日があれば、JAZZの話をしながらお酒でも飲もう。きっとだよ。

クラウドファンディングのお知らせ2023年07月15日 22時56分10秒

クラウドファンディングのお知らせ
重度心身障害児のための児童発達支援・放課後デイ、「ふわっと」さん。
電源喪失時に備えて、太陽光パネル・蓄電池を用意しようとクラウドファンディングを始めました。
みなさん、ぜひ、応援してください。

https://readyfor.jp/projects/124334

ぼくも全力で応援中です。

さようなら、清水文七先生2023年01月04日 19時43分51秒

分子ウイルス学教室の元教授、清水文七教授がお亡くなりになったことを知りました。90歳でした。

ぼくの人生で最大の恩人を一人あげるとすれば、それは清水先生です。先生に対するご恩の気持ちは歳を追うごとに高まっていきます。

ぼくは小児外科医になって3年目に大学院に進学しました。分子ウイルス学教室で神経芽腫のがん遺伝子の研究をしたのです。
先生の教室のメインテーマは、ヒトパピローマウイルスでした。
ぼくだけが異なったテーマで研究させていただいたのです。

清水先生と、指導教官だった白澤先生とぼくの三人で、毎週読書会をしました。がん遺伝子 N-myc に関する世界中の英語論文をぼくが読んで、二人の先生から質問を受けるというスタイルでした。
清水先生は、ぼくを鍛えると同時、ご自身も神経芽腫のがん遺伝子について勉強されたのです。

二人の先生のご指導のおかげでぼくは4年間に4本の英語論文を書くことができました。
いや、それ以上に科学的な考え方を鍛えていただきました。
このことは、ぼくがこれまで35年間医者をやっている中で、臨床医としての基盤になっています。

先生の最大の業績は、Vero 細胞を世界中に広めたことです。
同僚の安村美博先生が樹立した不死化したアフリカミドリザルの腎臓細胞には、多くのウイルスが感染することができます。
つまり未知のウイルスが発生したときに、Vero 細胞を使えば、そのウイルスを感染・増殖させ、分離して同定することを可能にするのです。

2019年12月に武漢で発生した肺炎。研究者たちは、Vero を使いウイルスを捕らえました。これが新型コロナウイルスです。

HeLa 細胞と並び、世界で最も有名な細胞株が、Vero 細胞です。
千葉大医学部が世界に誇ることのできる最大の業績でしょう。

虎は死して皮を残すと言いますが、Vero 細胞は文字通り永遠に生き続けます。
ぼくも一生涯先生の優しさと科学に対する真摯さを忘れないと思います。
どうぞ安らかにお眠りください。

夜の研究室での先生の言葉が今でも耳に残っています。
「どうですか、松永君? 何か新しいことは?」
「ちょっとどうかね、少しビールでも飲みますか?」
いずれぼくも追いかけます。また、ビールを飲みましょう。

Jack 先生、さようなら2019年06月19日 17時37分08秒

Jack Plaschkes 先生
訃報が届きました。
Jack Plaschkes 先生がお亡くなりになりました。
先生は小児外科医。
ヨーロッパの小児がんのグループスタディーの中で、肝芽腫をライフワークとして力を注いでいました。
SIOPEL という研究グループのリーダーだった先生です。

ぼくが初めて先生にお会いしたのは1999年。
スイスの首都ベルンでSIOPEL主催の国際会議が開催されました。
この会議には、ヨーロッパの各国のみならず、アメリカ・日本からもグループスタディーの代表者が招待を受けました。

日本の代表は、当時若手だったこのぼく。しかしぼくは英語が苦手でしたから、英語の上手な菱木先生がぼくをサポートしてくれました。
スイスで会議が行われた理由は、Jack 先生の地元だからです。

さて、当日14時間に及ぶフライトを終えて会議場に到着してみると、ウエルカムパーティーの最中でした。
先生はぼくの顔を見るとすぐに近寄って来てくれて、
「Dr. Matsunaga?」と聞いてきてくれました。
先生は世界を代表する肝臓外科医ですが、ぼくなんてまだ尻の青い若造という感じです。先生は当然ぼくの顔など知りません。
だけどアジア人がやってきたので、ぼくと分かったのでしょう。
しかし、Matsunaga なんてスイス人には発音しにくい名前をよく暗記していてくれたものです。
本当に感激しました。
日本の教授だったら120%、いや、200%あり得ないおもてなしです。
会議は3日間にわたって活発な討論が行われました。
先生はグループスタディーのリーダーなのだから、どんどん自分の意見を言ってもいいはずなのに、一切発言しません。
一番後ろの席に座ってニコニコしながらみんなの議論を見守っているのです。

会議日程が後半に入ったある日の夕刻に、ぼくは先生に呼び止められました。
正確な英語が分からなかったので、菱木先生に訳してもらったところ、「日本からはるばる来て疲れているでしょう、仲間もいなくて、夜は寂しいでしょう? 一緒にディナーでもどうですか?」とのお誘いでした。
なんという心遣いでしょうか。心が温かくなりました。
ベルンでは多くのことを学び、それを日本に持ち帰りました。

そして2005年に千葉で日本小児外科学会を私たちの教室が開催したとき、Jack 先生に特別講演のために来て頂きました。
6年ぶりに会う先生は、遠くからぼくを見つけるとさっと駆け寄ってくれて手を握ってくれました。

最後に先生とメールでやり取りをしたのは、2015年です。
訃報を伝えてくれた方の話によれば、ここ10年くらいは第一線を離れ、SIOPEL にも参加していなかったそうです。

先生、さようなら。いずれぼくも後を追います。相変わらず英語は下手ですけど、天国で肝切除の話の続きでもしましょう。
ワインでも飲みながら。
最高のおもてなしを本当にどうもありがとうございました。

高橋英世先生の思い出2019年02月08日 15時27分44秒

はじめて先生に身近に接したのは、医学部6年生の時のベッドサイドラーニングでした。
小児外科病棟には30人くらいの患者が入院していましたが、1号室の最初のベッドで、われわれ学生は教授から2時間くらいみっちり絞られるのです。
たった1人のベッドに2時間ですから、この先どうなるんだろうと目眩がする思いでした。
先生の質問は大変厳しく、またある意味で答えがなく、延々と学生に考えさせて真理を追求するというスタイルでした。
先生の実習は、その厳しさから、当時スパルタ教育で名を馳せた私塾に模して「高橋ヨットスクール」と学生の間で呼ばれていました。
しかし、単に知識を問うだけではない実習は、ある意味感動的でした。
昼過ぎにベッドサイドラーニングが終わると、小児外科に進むことが決まっていた僕に対して、同じグループの蓑島君が「おめでとう! すばらしい教授のもとで勉強できるね!」と言ってくれたのが印象的でした。

先生は、中山恒明先生の第二外科の伝統を最も正当に受け継いだ教授と言われていました。
最後の大物教授とも、教授の中の教授とも評判をとっていました。

先生の手術の指導は大変厳しく、初オペの鼠径ヘルニアの時は、前立ちを務めながらも一切手伝わず、怒声だけが飛んでくるというスタイルでした。これによって若い外科医は独立心を学びます。
僕の初オペは比較的短時間で終わったのですが、研修医の終わりにやった卒業試験では、鼠径部の解剖が分からなくなってしまい、手術中に立ち往生してしまいました。
手術が終わってどれだけ怒られるだろうかビクビクしていたら、ポケベルが鳴り、教授室に呼び出されました。
同僚の我妻君とおそるおそる教授室へ向かうと、外套を着込んだ教授が部屋の前に立っており、「おう、酒でも飲みにいくか!」と声をかけてくれました。

外科医としては、勘と度胸で手術をする先生でした。そう見えました。
しかしサイエンスに対する深い理解があり、基礎科学をコツコツとみんなで積み上げれば、やがてそれは大きな壁として立ち上がると説いてくれました。
僕に、分子生物学を学ぶ道を開いてくれたのも先生です。このご恩は一生忘れることができません。

さて、高橋先生の現役最後の最終手術はヒルシュスプルング病でした。退官前の最終オペは、普通は簡単なものを選ぶのが常道だと思います。しかし、先生はヒルシュスプルング病でした。
誰が前立ちを務めるのか?
白羽の矢が立ったのは、教室でナンバー4の位置にいた僕でした。こんな光栄なことはありません。
先生と一緒にヒルシュのオペをして、その手際の鮮やかさに仰天しました。ああ、勘と度胸の人ではないのだと思いました。理詰めのオペでした。
手術が終わって最後の糸を僕がハサミで切るとき、僕の手はピタリと止まりました。
「何をやってる!? 早く切れ!」教授がそう言いました。
僕は教授に言い返しました。
「切ると終わっちゃいますよ」
先生はニカッと笑いました。

先生、さようなら。
でもいつか僕もあの世に行きます。その時はまた手術の話をしながら、一杯やりましょう。

日本小児血液・がん学会へ行く2016年12月16日 16時40分25秒

日本小児血液・がん学会へ行く
久しぶりに小児がん学会に参加しました。
一番大事な仕事は、Meet the Expert という朝食付きセミナーで講師をつとめることです。
大学の教授やこども病院の病院長などをリタイヤした先人から、若手がレクチャーを受けるというものです。
ぼくのような若い人間、そして開業医が講師をつとめるのは異例というか、前例がないのではないでしょうか?
昨年から学会に依頼されていましたが、今年は学会場が品川なので行くことにしました。

さて、その前夜に会長招宴。
学会の重鎮がずらりと招かれています。
だがその顔ぶれは、実はほとんどが知った顔。ぼくの友人たちはみんな、教授とかこども病院の部長とか、学会の理事長になっています。
つまり歳をとったということ。
小児がん学会に参加するのは、何年ぶりか正確に覚えていないくらいなのですが、僕を見つけるとみんなが寄ってきてきれます。
体調のことを心配してくれて、仕事の様子を聞かれ、執筆のことを聞かれます。
僕など過去の人間ですが、ちゃんと忘れないでいてくれるのですね。
うれしい。うう。泣く。
会長招宴に引き続いて、仲間たちと飲みに出かけました。
楽しい時間はたちまち過ぎて、あっと言う間に閉店です。

さて、翌日は早朝からMeet the Expert 。
小児がん学会でありながら、僕は「重い障害を生きる子を通じて医師と患者家族の関係を考える」というテーマを選びました。
誰も聴きにきてくれなかったらどうしようかと思いましたが、席はしっかり埋まりました。
おまけに学会の会長である慶應の黒田教授まで聴きにきてくれました。
いや、うれしいですね。
スライド50枚を使って、呼吸器で生きる子の人生をしっかりとプレゼンしました。
お世辞と思いますが、黒田教授はとてもよかった、感動したと言ってくれました。

さて、そのあと普通に学会に参加です。
フロアから演者の発表を聴く。
学会はやはり良い。身が引き締まります。
だけど、少しだけ寂しい思いもしました。
自分には発表する研究成果がない。かつて僕は、小児がん学会で次から次に自分の新しい研究結果を報告しました。
他の施設からの発表に対しても質問を次々に浴びせて、いつもスポットライトに当たっていたと思います。

しかし、今やただの聴衆の一人。若い腫瘍科医は誰も僕のことなど知らないでしょう。

大学を去って開業医になり、文章を書くことで僕には新しい世界が開けました。
それはそれで大変幸福なのですが、人間ってやはり何かに帰属していないと淋しい。
やっぱり僕は小児外科医、そして小児腫瘍科医。
大学に残って小児がんの研究をしていたら、仕事だけの狭い世界に生きていたかもしれませんが、本当の自分の居場所に安心感を得ることができたように思えます。
そんなことをちょっと考えてしまいました。

さて、2018年に、小児がん学会は京都で開催されます。国際小児がん学会(SIOP)との同時開催です。
会長の京都府立医大・細井教授は、ぼくを主賓として招いてくれるそうです(笑)。
今から楽しみです。先生、約束ですよ〜。

第22回小学館ノンフィクション大賞決定!2015年07月31日 20時50分54秒

2013年の贈賞式
第22回小学館ノンフィクション大賞が決定しました!

http://mainichi.jp/select/news/20150801k0000m040050000c.html

大賞を受賞したのは、森健さん!
クロネコヤマトの会長さんをテーマにしたようですね。

大宅壮一ノンフィクション大賞に続いての受賞です。すごいです。

写真は2年前にぼくが大賞を取った時に贈賞式に駆けつけてくれた森さん。

本当におめでとうございます! バンザイ!

「角岡伸彦 五十の手習い」がイケてる2014年02月12日 20時41分52秒

「角岡伸彦 五十の手習い」
文通友達の角岡さんが、ここのところブログを書いています。
今回の話はコレ。

http://kadookanobuhiko.tumblr.com


寡作のノンフィクション・ライター、角岡伸彦さん。
彼の作品の魅力は多々ありますが、何と言ってその文章が良い。

文章っていうのは、読者からすると「こういう風に転がって欲しい」というリズムが必要であると同時に、読み手は「紋切り型の文章は読みたくない」という警戒感を持ちます。
そしてまた「こういう風に来たか!」と思わせられるような意外性を期待するものです。ユーモアも欲しい。質の高い。
そんな点で、角岡さんのブログは(著書も)本当にイケています。

タイピンを贈られる2013年08月13日 22時37分13秒

タイピン
友だちとは本当にありがたいです。
小学館ノンフィクション大賞の受賞記念にタイピンを頂きました。
ぼくのスーツより高いかも。
いやいや、値段じゃありません。
このタイピンを付けて、授賞式に出ましょう。

五味鳥で暑気払い2013年08月10日 23時05分07秒

医学部ラグビー部の時の仲間と、五味鳥で暑気払いをしました。
と言ってもあまりの猛暑に暑気を払うことはなかなか叶わず、キンキンに冷えた生ビールもたちまち温くなる有様でした。

ですが、刺身や焼き鳥を食べて、さらにメニューに無い「裏メニュー」までお願いして、旧交を温めて楽しい時間はあっと言う間に経っていきました。
あまり深酒はせず、帰途につきました。

世間はお盆休み。
クリニックも空いていました。
来週の月曜日と火曜日は診療をおこないますが、あまり患者さんは来院しないかもしれませんね。

千葉大医学部の副医学部長である白澤先生から、小学館ノンフィクション大賞の受賞の手記を依頼されました。
千葉医学会誌に掲載されるそうです。
白澤先生は分子ウイルス学教室の教授。ぼくの大学院時代の指導教官です。当然引き受けます。
連休を利用して3000文字くらい書きましょう。