ノンフィクション文学におけるオリジナリティーとは何か? ― 2012年05月15日 21時43分18秒
今月号の「文芸春秋」を読んだところ、大宅壮一ノンフィクション賞の選考コメントが掲載されていました。
受賞した作品が誉められているのは当たり前のことですが、受賞できなかった作品があれ程けなされなければならなかったのか、ちょっと作者が可哀想だと思いました。
最も高い評価を受けたのは「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」です。
この本が大宅賞を受賞したのはまったくもって正当だと思いますし、以前にこのブログでそういう予言をしたこともありました。
ですが同時にノンフィクション文学として、検証作業の限界(時間が経ちすぎている)も、大変傲慢ですが指摘させて頂きました。
ノンフィクション文学におけるオリジナリティーとは何でしょうか?
ノンフィクションは「人」を描くか「事件」を描くかという分類もありますが、「自分の経験(取材を含む)」を書くか、「資料を収集・分析して」書くか、という分類や見方もできると思います。
(もちろん両者は混じり合って本ができる)
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」でも、当然ながら多数の人に取材をして本を仕上げています。
ですが本の1/2以上は資料を読み解いて、それを物語をとして再構成・解説・敷衍しているのではないでしょうか。
巻末には主要参考文献が並んでいますが、これはサイエンスの世界に生きてきたぼくから見ると「参考」の域を出ていると思います。
(もちろん、それがいけないと言っているのではない)
理系の世界、サイエンスの世界でも論文を書く時に、巻末に参考文献を並べます。
しかし、それは「引用」したりするためではない。
サイエンスでは、オリジナルであることが何より重要です。
まず仮説を立てる。
その思考の過程で役に立った参考文献を明記する。
実験を行い結果を得る。
そして考察をする。
その考察の過程でも、自分の考え方を裏付ける他者の実験論文を並べるのです。
だからノンフィクション文学と科学論文では、参考文献の意味づけがまったく違うように思います。
ただ、科学の世界には「総説・レビュー」という論文があります。
これは、その道の大家の先生が、いろいろな論文を山ほど引用して「解説」してくれる論文です。
総説を書く科学者は、世界のトップサイエンティストだけですが、そういった「総説」と「資料に基づくノンフィクション文学」は近いなと思います。
一方で、「オリジナル・ペーパー」と言われる普通の科学論文は、「自身の経験や取材に基づくノンフィクション」に近い感じがします。
くり返しますが、どちらかが良いとか悪いとか言っているのではありません。
これは蛇足ですが、日本の作家はなぜ日本語で本を書くのでしょう?
純文学を日本語で書くのは当たり前ですが、ノンフィクションには何かを知らしめるという役割があります。
価値の高い内容であれば、それは絶対に国境を越えるはずです。
医学・科学の世界では日本語で書かれた論文は、論文と見なされません。
日本人にしか理解できないからです。
つまりそれだけ普遍性に劣り、価値が低いと判断される訳です。
科学論文は英語が国際的に「公用語」になっていますので、英語で書きます。
ぼくは大学を辞めた時点で、41編の英語論文を作っていました。
別に英語がえらい訳でもなんでもなく、現在のサイエンスの覇権をアメリカが握っているから英語が使用されているだけで、「公用語」がドイツ語だったらぼくはドイツ語で論文を書きます。
それくらいのドイツ語力くらいは、ぼくは持っています。
それはさておき、日本のノンフィクション作家の中から、英語で本を書く人が出てきても良いような気がするのです。
本多勝一さんのルポルタージュで外国語に翻訳された本は多数あるし、立花隆さんの「宇宙からの帰還」や「臨死体験」「精神と物質」などは英語で出版すれば世界的なベストセラーになるような気がします。
世界中の人に読んで欲しいと思っている作家さんはいっぱいいるはずなので、世界に目を向けて書くという発想があっても良いように思います。
世界のトップの作家に伍して本を書くなんて素晴らしいじゃないですか。
文藝春秋を読みながらそんなことを考えました。
受賞した作品が誉められているのは当たり前のことですが、受賞できなかった作品があれ程けなされなければならなかったのか、ちょっと作者が可哀想だと思いました。
最も高い評価を受けたのは「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」です。
この本が大宅賞を受賞したのはまったくもって正当だと思いますし、以前にこのブログでそういう予言をしたこともありました。
ですが同時にノンフィクション文学として、検証作業の限界(時間が経ちすぎている)も、大変傲慢ですが指摘させて頂きました。
ノンフィクション文学におけるオリジナリティーとは何でしょうか?
ノンフィクションは「人」を描くか「事件」を描くかという分類もありますが、「自分の経験(取材を含む)」を書くか、「資料を収集・分析して」書くか、という分類や見方もできると思います。
(もちろん両者は混じり合って本ができる)
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」でも、当然ながら多数の人に取材をして本を仕上げています。
ですが本の1/2以上は資料を読み解いて、それを物語をとして再構成・解説・敷衍しているのではないでしょうか。
巻末には主要参考文献が並んでいますが、これはサイエンスの世界に生きてきたぼくから見ると「参考」の域を出ていると思います。
(もちろん、それがいけないと言っているのではない)
理系の世界、サイエンスの世界でも論文を書く時に、巻末に参考文献を並べます。
しかし、それは「引用」したりするためではない。
サイエンスでは、オリジナルであることが何より重要です。
まず仮説を立てる。
その思考の過程で役に立った参考文献を明記する。
実験を行い結果を得る。
そして考察をする。
その考察の過程でも、自分の考え方を裏付ける他者の実験論文を並べるのです。
だからノンフィクション文学と科学論文では、参考文献の意味づけがまったく違うように思います。
ただ、科学の世界には「総説・レビュー」という論文があります。
これは、その道の大家の先生が、いろいろな論文を山ほど引用して「解説」してくれる論文です。
総説を書く科学者は、世界のトップサイエンティストだけですが、そういった「総説」と「資料に基づくノンフィクション文学」は近いなと思います。
一方で、「オリジナル・ペーパー」と言われる普通の科学論文は、「自身の経験や取材に基づくノンフィクション」に近い感じがします。
くり返しますが、どちらかが良いとか悪いとか言っているのではありません。
これは蛇足ですが、日本の作家はなぜ日本語で本を書くのでしょう?
純文学を日本語で書くのは当たり前ですが、ノンフィクションには何かを知らしめるという役割があります。
価値の高い内容であれば、それは絶対に国境を越えるはずです。
医学・科学の世界では日本語で書かれた論文は、論文と見なされません。
日本人にしか理解できないからです。
つまりそれだけ普遍性に劣り、価値が低いと判断される訳です。
科学論文は英語が国際的に「公用語」になっていますので、英語で書きます。
ぼくは大学を辞めた時点で、41編の英語論文を作っていました。
別に英語がえらい訳でもなんでもなく、現在のサイエンスの覇権をアメリカが握っているから英語が使用されているだけで、「公用語」がドイツ語だったらぼくはドイツ語で論文を書きます。
それくらいのドイツ語力くらいは、ぼくは持っています。
それはさておき、日本のノンフィクション作家の中から、英語で本を書く人が出てきても良いような気がするのです。
本多勝一さんのルポルタージュで外国語に翻訳された本は多数あるし、立花隆さんの「宇宙からの帰還」や「臨死体験」「精神と物質」などは英語で出版すれば世界的なベストセラーになるような気がします。
世界中の人に読んで欲しいと思っている作家さんはいっぱいいるはずなので、世界に目を向けて書くという発想があっても良いように思います。
世界のトップの作家に伍して本を書くなんて素晴らしいじゃないですか。
文藝春秋を読みながらそんなことを考えました。
再訪・ベンツ新型Bクラス ― 2012年05月13日 21時36分56秒
今日はやることがいっぱいあって、本当に忙しい一日でした。
そのうちの一つが、ヤナセさんへの再訪。
はい、写真でご覧の通り、ぼくのピナレロRokhがきれいに収まりました。
ただ間口はちょっと狭いため(高さがない)、少し自転車を斜めにしないと入りにくいです。
2台の自転車を積む時は、出し入れの際に干渉に注意する必要がありそうです。
ま、しかしこの現況を思うと、いかにホンダ・フィットがすぐれているか、ほんと〜によく分かります。
あのサイズであの容量は驚異的だし、走りもかなり良いんですよね。
さて新型Bクラスですが、発売が始まったばかりですが、大人気だそうで納車は4カ月待ちだそうです。
すごいですね、まるでプリウスだ。
夕方からは自転車に敷いているカーペットを洗浄しました。
とてもきれいになって心もスッキリ。
自転車も洗浄しようと思ったのですが、暗くなって時間切れ。
また来週ですね。
そのうちの一つが、ヤナセさんへの再訪。
はい、写真でご覧の通り、ぼくのピナレロRokhがきれいに収まりました。
ただ間口はちょっと狭いため(高さがない)、少し自転車を斜めにしないと入りにくいです。
2台の自転車を積む時は、出し入れの際に干渉に注意する必要がありそうです。
ま、しかしこの現況を思うと、いかにホンダ・フィットがすぐれているか、ほんと〜によく分かります。
あのサイズであの容量は驚異的だし、走りもかなり良いんですよね。
さて新型Bクラスですが、発売が始まったばかりですが、大人気だそうで納車は4カ月待ちだそうです。
すごいですね、まるでプリウスだ。
夕方からは自転車に敷いているカーペットを洗浄しました。
とてもきれいになって心もスッキリ。
自転車も洗浄しようと思ったのですが、暗くなって時間切れ。
また来週ですね。
ベンツ新型Bクラス訪問記 ― 2012年05月12日 16時55分34秒
仕事が終わってヤナセさんに出かけました。
目的はもちろん新型Bクラスです。
白の試乗車が置かれていましたが、最初に目にした印象は「案外地味だな」といった感じで、あまり強いインパクトはありませんでした。
フロントグリルのベンツマークが、平板な円盤になっていてがっかりします。
これはなぜかというと、この円盤がレーダーになっていて、前方との車の距離を計測するためなんです。
ま、仕方ないと言えましょう。
乗り込んでみると、座席の高さは普通の乗用車。
これまでのA/Bクラスと違って、底上げの構造になっていないからです。
新型Bクラスの売りは、ワンランク上の内装です。
だけどそれに関しては、さんざんこれまでにネットなどで見てしまったために大きな驚きはありませんでした。
シフトレバーが無いんです。
代わりに右前方に小さな突起物が付いていて、それを操作することでシフトチェンジできます。
慣れるまではちょっと大変でしょう。
パーキングブレーキも同様。手の力で動かすのではなくて、電子式なんですね。
7段変速のデュアルクラッチ。
このため、クリープがない。
だから出足がとても重く感じてしまう。これも慣れが必要でしょう。
動き出すと、太いトルクが実感できます。
滑らかで力強いと感じました。
車の大きさはさほど感じませんでしたが、今乗っているAクラスのように「自分の手足となってくれる」という感覚は残念ながらありません。
アイドリングストップは燃費向上に大いに役立っている感じですが、再始動のエンジン音はちょっと鬱陶しい感じもあります。
試乗を終えて、家内と一緒に後部座席に乗り込むと足元の余裕はかなりのものがあります。
家族旅行は年に2回くらいですが、長距離を走っても後部座席の家族は疲れないでしょう。
さて問題は荷室に自転車が乗るかどうかです。
まあ余裕で乗るでしょうけど、メジャーで測ってみましょうって、、、これはギリギリ乗らないかも!
そうなるとこの車を買うという選択肢は消失します。
まさか。まさか。まさか。
でも一応、ぼくのAクラスを査定してもらいました。
その結果、ドカーンとびっくりするくらいの高額。
じゃあ、数カ月前のフォルクス・ワーゲンの査定は一体何だったんだ。
それはともかくAクラスがこんなに高額で取ってくれるならば、新型Bクラスを買ってもいいかも。
それにはともかく自転車が積めることが必須の条件です。
(もちろん後輪を外せば、2台積めるのだけど、現在、前輪を外すだけで積めるのだから、そこからさらに不便になりたくない)
ヤナセさんには、今度自転車を持ってきてくださいと頼まれました。
帰宅して、自転車をよくよく見てみると、前輪を外して車体が傾けば、あの荷室に入る様な気がしてきました。
うーん、じゃあ、自転車が積み込めたら、もう買うということで決まりですか?
ただね、今のAクラスもほんとーーに良い車なんですよ。
だけど車っていつか買い換えないといけないじゃないですか?
なんだかその辺りは納得できない部分もあるんですが、Aクラスは5年近く乗ったので、ぼくとしてはかなり長期間のお付き合いでした。
もうじき、Aクラスもフルモデルチェンジだから、そうなると、下取りに出しても大した金額にならないでしょう。
どうやらぼくは資本主義の歯車の巻き込まれて消費されているようですね。
買うかも。分からないけど。
目的はもちろん新型Bクラスです。
白の試乗車が置かれていましたが、最初に目にした印象は「案外地味だな」といった感じで、あまり強いインパクトはありませんでした。
フロントグリルのベンツマークが、平板な円盤になっていてがっかりします。
これはなぜかというと、この円盤がレーダーになっていて、前方との車の距離を計測するためなんです。
ま、仕方ないと言えましょう。
乗り込んでみると、座席の高さは普通の乗用車。
これまでのA/Bクラスと違って、底上げの構造になっていないからです。
新型Bクラスの売りは、ワンランク上の内装です。
だけどそれに関しては、さんざんこれまでにネットなどで見てしまったために大きな驚きはありませんでした。
シフトレバーが無いんです。
代わりに右前方に小さな突起物が付いていて、それを操作することでシフトチェンジできます。
慣れるまではちょっと大変でしょう。
パーキングブレーキも同様。手の力で動かすのではなくて、電子式なんですね。
7段変速のデュアルクラッチ。
このため、クリープがない。
だから出足がとても重く感じてしまう。これも慣れが必要でしょう。
動き出すと、太いトルクが実感できます。
滑らかで力強いと感じました。
車の大きさはさほど感じませんでしたが、今乗っているAクラスのように「自分の手足となってくれる」という感覚は残念ながらありません。
アイドリングストップは燃費向上に大いに役立っている感じですが、再始動のエンジン音はちょっと鬱陶しい感じもあります。
試乗を終えて、家内と一緒に後部座席に乗り込むと足元の余裕はかなりのものがあります。
家族旅行は年に2回くらいですが、長距離を走っても後部座席の家族は疲れないでしょう。
さて問題は荷室に自転車が乗るかどうかです。
まあ余裕で乗るでしょうけど、メジャーで測ってみましょうって、、、これはギリギリ乗らないかも!
そうなるとこの車を買うという選択肢は消失します。
まさか。まさか。まさか。
でも一応、ぼくのAクラスを査定してもらいました。
その結果、ドカーンとびっくりするくらいの高額。
じゃあ、数カ月前のフォルクス・ワーゲンの査定は一体何だったんだ。
それはともかくAクラスがこんなに高額で取ってくれるならば、新型Bクラスを買ってもいいかも。
それにはともかく自転車が積めることが必須の条件です。
(もちろん後輪を外せば、2台積めるのだけど、現在、前輪を外すだけで積めるのだから、そこからさらに不便になりたくない)
ヤナセさんには、今度自転車を持ってきてくださいと頼まれました。
帰宅して、自転車をよくよく見てみると、前輪を外して車体が傾けば、あの荷室に入る様な気がしてきました。
うーん、じゃあ、自転車が積み込めたら、もう買うということで決まりですか?
ただね、今のAクラスもほんとーーに良い車なんですよ。
だけど車っていつか買い換えないといけないじゃないですか?
なんだかその辺りは納得できない部分もあるんですが、Aクラスは5年近く乗ったので、ぼくとしてはかなり長期間のお付き合いでした。
もうじき、Aクラスもフルモデルチェンジだから、そうなると、下取りに出しても大した金額にならないでしょう。
どうやらぼくは資本主義の歯車の巻き込まれて消費されているようですね。
買うかも。分からないけど。
水曜日は頭痛の日 ― 2012年04月17日 22時04分36秒
明日は休診日、で、大学へ行って診療をおこなってきます。
大学病院へ行く日はかなり高い確率で頭痛がおきます。
ぼくにとって大学での診療は頭痛の種?
いえ、その逆なんですよ。
ぼくの頭痛は「偏頭痛」というヤツで、原因はセロトニンという物質が脳内の血管を収縮させることにあります。
そしてこのセロトニンはストレスから解放されると分泌が高まるのです。
だから通常、偏頭痛というのは週末に発生します。
分かりやすく言えば、大学病院に行くと、ほっとするために頭痛が起きるのですね。
考えてみれば、それは当たり前。
19年間いた場所ですからね。
今のクリニックはまだ6年。その3倍です。
大学へ行けば今でも自宅へ戻ったような気分になります。
それでもって頭痛が起きるのだから何とも間の抜けた話です。
しかし、この偏頭痛はいつもけっこう激しくて、水曜日にはマクサルトを飲むことが多い。
この薬は偏頭痛の特効薬で、本当にたちまち頭痛が消えていきます。
明日も薬の世話になるかもしれません。
水曜日に頭痛が起きなくなったら、その時はもう大学病院での診療をやめた方が良いでしょうね。
大学病院へ行く日はかなり高い確率で頭痛がおきます。
ぼくにとって大学での診療は頭痛の種?
いえ、その逆なんですよ。
ぼくの頭痛は「偏頭痛」というヤツで、原因はセロトニンという物質が脳内の血管を収縮させることにあります。
そしてこのセロトニンはストレスから解放されると分泌が高まるのです。
だから通常、偏頭痛というのは週末に発生します。
分かりやすく言えば、大学病院に行くと、ほっとするために頭痛が起きるのですね。
考えてみれば、それは当たり前。
19年間いた場所ですからね。
今のクリニックはまだ6年。その3倍です。
大学へ行けば今でも自宅へ戻ったような気分になります。
それでもって頭痛が起きるのだから何とも間の抜けた話です。
しかし、この偏頭痛はいつもけっこう激しくて、水曜日にはマクサルトを飲むことが多い。
この薬は偏頭痛の特効薬で、本当にたちまち頭痛が消えていきます。
明日も薬の世話になるかもしれません。
水曜日に頭痛が起きなくなったら、その時はもう大学病院での診療をやめた方が良いでしょうね。
予測通り、大宅壮一ノンフィクション賞 ― 2012年04月11日 20時35分14秒
今年度の大宅壮一ノンフィクション賞に、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」と「『つなみ』の子どもたち」が選ばれました。
前者に関しては2月11日のブログにこう書きました。
・・・・・・・・・・
面白いし、ベストセラーになって、話題性もあって、この本は何かの賞を取るかもしれませんね。
・・・・・・・・・・
そして後者に関しては先日、こう書きました。
・・・・・・・・・・
大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するかもしれませんね。
・・・・・・・・・・
予測的中といった感じです。
がしかし、強調したいのは、賞を取らなかった「ホームレス歌人のいた冬」も「1985年のクラッシュ・ギャルズ」も大傑作ということです。
すべての作品がお勧めです!
前者に関しては2月11日のブログにこう書きました。
・・・・・・・・・・
面白いし、ベストセラーになって、話題性もあって、この本は何かの賞を取るかもしれませんね。
・・・・・・・・・・
そして後者に関しては先日、こう書きました。
・・・・・・・・・・
大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するかもしれませんね。
・・・・・・・・・・
予測的中といった感じです。
がしかし、強調したいのは、賞を取らなかった「ホームレス歌人のいた冬」も「1985年のクラッシュ・ギャルズ」も大傑作ということです。
すべての作品がお勧めです!
お陰様で ― 2012年04月07日 22時56分12秒
1日で背中の痛みは回復しました。
また、面白い本を読んだらレビューを書きましょう。
皆さん、お楽しみに。
また、面白い本を読んだらレビューを書きましょう。
皆さん、お楽しみに。
全国30万人のファンの皆様 ― 2012年04月06日 23時07分59秒
ブログはちょっとお休みします。
今朝、背筋を痛め、そのため肩凝りになってしまいました。
寄る年波には勝てません。
こんな時は休むに如かず、です。
腕が軽くなったら、再開します。
今朝、背筋を痛め、そのため肩凝りになってしまいました。
寄る年波には勝てません。
こんな時は休むに如かず、です。
腕が軽くなったら、再開します。
展覧会の絵 ― 2012年04月04日 21時58分12秒
五十にして天命を知る ― 2012年03月20日 22時08分05秒
四十の不惑は誰でも知っていると思いますが、五十は何かご存知ですか?
答えは、天命を知る、です。
天命とは何ぞやという疑問がありますが、これは、神から与えられた使命という解釈のほかに、宿命・運命・寿命などという解釈もあるようです。
ぼくは、後者だと思いますよ。
だって、神様から使命を授かっている人なんか滅多にいないでしょ?
だから、これは「寿命」が正解ですよ。
ぼくは、天命を知る年齢になって、自分の寿命が見えた気がします。
生物学的にはあと、20-30年、生きるでしょう。
だけど、知的アクティビティーを保ち続けることができるのは、せいぜい10年ではないでしょうか?
体だってそんなに丈夫ではありませんから、やはり、知的にも身体的にも新しいことに挑めるのは、あと10年、つまり還暦で終了でしょうね。
還暦とはよく言ったもので、ぼくはこれまでに、還暦を過ぎて高い知的活動をしている人や医者をほとんど(少数の尊敬すべき例外的な人を除いて)見たことがありません。
ぼくの能力はたいしたことはありませんから、還暦を過ぎればそれまでの人生の貯金にもたれかかるように、経験を生かしながら生きていくでしょう。
そうであれば、ぼくの人生はあと10年。
夏なんて何度でも来ると今までは思っていましたが、ぼくの夏はあと10回でおしまいです。
南房総にサイクリングへ出かけるのも、あと10回。
1年間に新しい人と6人出会えたとして、あと60人です。
本当に時間が少なくなってきました。
やりたいことは山ほどあります。
そういった大事なことをやり遂げるためには、少し不義理をしたりしなくてはいけないかもしれません。
人が決めたルールに従って生きるのは虚しいので、やはりぼくは自分の人生を大事にしましょう。
あと10年か。
あっという間だろうな。
答えは、天命を知る、です。
天命とは何ぞやという疑問がありますが、これは、神から与えられた使命という解釈のほかに、宿命・運命・寿命などという解釈もあるようです。
ぼくは、後者だと思いますよ。
だって、神様から使命を授かっている人なんか滅多にいないでしょ?
だから、これは「寿命」が正解ですよ。
ぼくは、天命を知る年齢になって、自分の寿命が見えた気がします。
生物学的にはあと、20-30年、生きるでしょう。
だけど、知的アクティビティーを保ち続けることができるのは、せいぜい10年ではないでしょうか?
体だってそんなに丈夫ではありませんから、やはり、知的にも身体的にも新しいことに挑めるのは、あと10年、つまり還暦で終了でしょうね。
還暦とはよく言ったもので、ぼくはこれまでに、還暦を過ぎて高い知的活動をしている人や医者をほとんど(少数の尊敬すべき例外的な人を除いて)見たことがありません。
ぼくの能力はたいしたことはありませんから、還暦を過ぎればそれまでの人生の貯金にもたれかかるように、経験を生かしながら生きていくでしょう。
そうであれば、ぼくの人生はあと10年。
夏なんて何度でも来ると今までは思っていましたが、ぼくの夏はあと10回でおしまいです。
南房総にサイクリングへ出かけるのも、あと10回。
1年間に新しい人と6人出会えたとして、あと60人です。
本当に時間が少なくなってきました。
やりたいことは山ほどあります。
そういった大事なことをやり遂げるためには、少し不義理をしたりしなくてはいけないかもしれません。
人が決めたルールに従って生きるのは虚しいので、やはりぼくは自分の人生を大事にしましょう。
あと10年か。
あっという間だろうな。
島田市のお茶を買う ― 2012年03月18日 19時42分18秒
東北三県を中心に莫大な量の瓦礫が未処理のまま積み上がっています。
瓦礫には蝿がたかり、虫がわいている状況です。
地元ですべての瓦礫を処理することは不可能ですから、当然のことながら日本全体でこの瓦礫処理に取り組まなければなりません。
しかし、各地方自治体の対応の遅さはどうでしょうか?
そんな中で、静岡県の島田市が瓦礫処理を受入れることを決めました。
これはすんなり決まった訳ではありません。
当初は住民の殆どが瓦礫処理に反対していました。
しかし自治体の責任者たちは現地に赴き、その瓦礫の惨状を目にし、そして自分たちで実際に放射線量を測定して安全性を確認しました。
地元に帰った責任者たちは、丁寧な説明を積み重ね、今回の受け入れが決まった訳です。
日本人は、「道徳観が強い」とか、「助け合いの気持ちが強い」とか、「絆を大事にしている」とか、そいうことを盛んに言うくせして、こういう時になると、「横並びの文化」「えんがちょの文化」が露骨に顔を出します。
そんな中で島田市の英断は見事だと思います。
もちろん、地元には反対派が今でもいます。
しかし、市は反対派住民にも自由に放射線量を測らせるそうです。
現在、島田市がもっとも懸念しているのは風評被害です。
島田茶、金谷茶、川根茶。
お茶で有名な島田市です。
変な風評被害に負けることなく、頑張って欲しいものです。
ぼくは今朝、島田市役所に応援のメールを書き、三地域のお茶を注文しました。
届くのが楽しみです。
どれだけ美味しいでしょうか。
さて、瓦礫処理を受け入れない住民心理の中には、「国の言う安全という言葉は信じられない」という気持ちや意見があります。
そういう論理を貫く人間は、最終的にアナーキストです。
人間は一生を生きる間に多くの不条理を突きつけられます。
この、不条理な苦しみをどうやって乗り越えればいいのでしょうか。
それは、人と人が連帯して、不条理の苦痛を分かち合って、分散して希釈するしかないとぼくは信じています。
もし仮に、瓦礫処理が全国に広がって、その結果、少しだけ生涯に浴びる放射線量が増えて、日本人の平均寿命が一年とか二年縮むならば、それは致し方ないと思います。
そいうことを「運命」と言うのではないでしょうか。
瓦礫には蝿がたかり、虫がわいている状況です。
地元ですべての瓦礫を処理することは不可能ですから、当然のことながら日本全体でこの瓦礫処理に取り組まなければなりません。
しかし、各地方自治体の対応の遅さはどうでしょうか?
そんな中で、静岡県の島田市が瓦礫処理を受入れることを決めました。
これはすんなり決まった訳ではありません。
当初は住民の殆どが瓦礫処理に反対していました。
しかし自治体の責任者たちは現地に赴き、その瓦礫の惨状を目にし、そして自分たちで実際に放射線量を測定して安全性を確認しました。
地元に帰った責任者たちは、丁寧な説明を積み重ね、今回の受け入れが決まった訳です。
日本人は、「道徳観が強い」とか、「助け合いの気持ちが強い」とか、「絆を大事にしている」とか、そいうことを盛んに言うくせして、こういう時になると、「横並びの文化」「えんがちょの文化」が露骨に顔を出します。
そんな中で島田市の英断は見事だと思います。
もちろん、地元には反対派が今でもいます。
しかし、市は反対派住民にも自由に放射線量を測らせるそうです。
現在、島田市がもっとも懸念しているのは風評被害です。
島田茶、金谷茶、川根茶。
お茶で有名な島田市です。
変な風評被害に負けることなく、頑張って欲しいものです。
ぼくは今朝、島田市役所に応援のメールを書き、三地域のお茶を注文しました。
届くのが楽しみです。
どれだけ美味しいでしょうか。
さて、瓦礫処理を受け入れない住民心理の中には、「国の言う安全という言葉は信じられない」という気持ちや意見があります。
そういう論理を貫く人間は、最終的にアナーキストです。
人間は一生を生きる間に多くの不条理を突きつけられます。
この、不条理な苦しみをどうやって乗り越えればいいのでしょうか。
それは、人と人が連帯して、不条理の苦痛を分かち合って、分散して希釈するしかないとぼくは信じています。
もし仮に、瓦礫処理が全国に広がって、その結果、少しだけ生涯に浴びる放射線量が増えて、日本人の平均寿命が一年とか二年縮むならば、それは致し方ないと思います。
そいうことを「運命」と言うのではないでしょうか。



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