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ウラ・オモテのある人間はダメ2014年07月23日 21時17分42秒

このブログを書き始めて9年目になります。
当初は、「なぜそこまで書くの?」とか、「意見が厳しすぎる」とか、そういった批判や助言を友人からいくつももらいました。

しかし、ぼくは住所も名前も電話番号も顔もさらして「何かを」批判している訳です。
そこだけは分かって欲しい。

オモテではこういう顔をして、ウラではこういうことを言っている、、、そういう人間をこれまでたくさん見てきましたが、ぼくはそういう人間にはなりたくない。
そしてそういう人間を軽蔑している。
それはこれからも変わらないでしょう。

そういうことがあるので、ぼくは決して人の陰口は叩きません。
何か意見があれば堂々とブログで世界中に発信します。

ぼくは大学病院に在籍していた時、相当きついことを後輩に言ったと思います。
厳しい教官でしたからね。
今になって思うと、ちょっと厳し過ぎたかなと後悔することもありますが、それは悪口ではなかったと思うし(ただし、不適切な表現はあった)、本人がいないところで、その後輩の批判をしたことは無いと断言できます。

だから、ぼくのことを「イヤな先輩」だなと思っている人がいても、陰口は言われていないと信じてくださいね。

上司にも立派な人もいたし、ダメな人もいた。
その判断の基準はやはり、信用できる人か否かという点でしたね。
隂で後輩の人格を否定するようなことを言う上司は、まったく信用できませんでしたね。
ま、ぼくはちょっと潔癖症なところがあるので、上辺だけ調子を合わせて先輩と付き合うということができませんので、年齢を重ねるうちに、人付き合いの範囲が狭くなっているように感じます。

ま、人生は短い。
意味のある時間を過ごしたいですね。

ころび草2014年07月24日 18時38分31秒

革命が起きてプロレタリアート独裁となっても、CP者はプロレタリアートに入れない、、、という台詞には強烈なインパクトがありました。
人間は労働によって自己実現するとぼくは時々口にしますが、横田さんによってその固定概念が打ち砕かれたように思います。

夏祭り2014年07月25日 18時52分59秒

電子書籍化
近所の公園から夏祭りの、太鼓と楽曲の大音響が轟いてきます。
道路は混雑するし、書斎で読書もできないような有様なので、ぼくにはあまり嬉しくない。
しかしこれを楽しみにしている住民はたくさんいますので、終了時刻をきちんと守ってくれれば、ま、文句は言わないでおこうと思います。

そう言えば、1年前の夏祭り。
この大音響の中、小学館から電話がかかってきて、第20回小学館ノンフィクション大賞の受賞を教えられました。
電話の声が聞き取れなくて、ぼくはiPhoneをトイレに持ち込んで会話しました。

あの時が幸福の絶頂でしたね。

大賞を受賞することで、ぼくが描いたご家庭の闘病の姿はどれだけ反響を呼ぶのだろうかと身構えました。
ところが、びっくりするくらい静かなもの。

5年前に「命のカレンダー」(講談社 現在は中公文庫から「小児がん外科医」と改題して発売中)を上梓した時の方がはるかに反響がありました。
あの時は、新聞・雑誌・ラジオ・テレビに取り上げられました。
今回とえらい違いです。

しかしぼくが投げた小石は小さな波紋になり、それが徐々に広がっているという実感があります。
8月には千葉市で市民公開フォーラム。
10月には宮崎で、自立障害者の人達に招かれて勉強会の講師を務めます。

12年前に解離性脳動脈瘤に倒れてからぼくは一度も飛行機に乗っていません。
今回、脳外科の主治医と相談して、宮崎まで飛行機で行くことにしました。
万が一のことは起きないと信じて、出かけてきます。

さて、「運命の子 トリソミー」は細々と売れているようです。
来週金曜日にはついに電子書籍化されます。
大変嬉しいです。
値段も安くなるし、ぜひ、購入してくださいね。

岡村青の「脳性マヒ者と生きる 大仏空の生涯」その22014年07月27日 15時59分08秒

大仏空(おさらぎ あきら)さんは、なぜCP者の解放区を作ろうとしたのでしょうか?

一番の理由は父親との葛藤かもしれない。
男という生き物は、多かれ少なかれ父親を乗り越えようとするものです。
大仏さんの父親は、檀家を持たない托鉢僧・乞食僧だったのですが、自分の寺を大きくする中で、金持ちや上流の人達とだけ付き合うようになった。
大仏さんにはそれが納得できなかったのかもしれない。
社会運動や農民運動もやっていた。孤児院でも働いていた。
そしてそんなある時に、CP者に出会った。
親鸞の「悪人正機説」の「悪人」とはまさにCP者であると悟ったのでしょう。

マハラバ村に集まってくるCP者はいずれも、被害者意識が強く、社会性が欠如し、人間不信があって、その結果、共に生きていこうと意識に著しく欠けます。
相互不信は対立や闘争になり、やがて共同体は崩壊します。

ところが不思議なことに、彼らは、最初に村を出て川崎に戻ったメンバーの元に集まっていく。
やはり個人として孤独に生きることはできないかのように見えます。
映画「さようならCP」でも、全員が一室に集まっている場面があります。ところが途中で喧嘩になったりしちゃうんですけれど。
健全者には窺い知れない、彼らなりの結びつきがあるのでしょうか?

いずれにしても大仏空がいなければマハラバ村はできなかった。
マハラバ村が無ければ、「青い芝の会・神奈川県連合会」はできなかった。
神奈川の青い芝の会が無ければ、横塚さんも横田さんも障害者解放の運動をしなかった訳ですから、日本に「優生保護法」が居残り続け、障害胎児が堕胎されることが法律で認められてしまった可能性が高い。

イギリスを中心としたヨーロッパで「胎児条項」が認められている最大の理由(正当性)は、障害児が生まれてしまった場合は手厚く福祉の援助をするというダブルスタンダードの仕組みにあるんです。
だけど、日本という国は、「二重基準」とは「二枚舌」みたいなものですから、これにうまく馴染まない。
われわれは案外潔癖な民族なのだと思います。

日本は恥の文化、キリスト教文化圏は罪の文化と言います。
しかし、「水子供養」って世界で日本だけでしょ?
もちろん、この供養にはお寺さんの資本主義が深くからんでいることは知っていますが、日本人の心の中には水子に対する罪の意識があって、それが母親を苦しめているのではないでしょうか。

日本の神話を紐解くと、イザナギ命とイザナミ命が赤ちゃんを授かります。しかしその赤ちゃんは全身がぐにゃぐにゃで葦の舟に乗せられて流されてしまう。
この赤ちゃんはCPですよね?
流れ去った蛭子(ヒルコ)は、やがて幸福の神様・蛭子(エビス)様となって帰って来ます。
なぜでしょう?
それは私たちが、水子供養と同じようにCP児を捨てたことを後ろめたく思っているからではないでしょうか?
だから商売繁盛の神様としてカムバックさせて贖罪しているのだと思います。

青い芝の会には4つの行動綱領があって、その1番目は「われわれはCP者であることを自覚する」というものです。
自覚。大事ですよね。
CP者がCPであることから逃げてはいけない。
理解すること、自覚すること。自分が疎外されていると、痛いほど理解する。
その理解が、疎外からの解放の第一歩なのでしょう。

ハンナ・アーレントを読んでいても、「理解する」「考える」ということが語義以上に人生においては重要とよくわかります。

オンデマンドのような形でデジタルになりませんかね?素晴らしい作品です。

ヒトって何だ?2014年07月30日 23時16分01秒

ヒトの特性
CP者の手記や、CP者に関する記述を最近続けて読んでいますが、これは「運命の子 トリソミー」の聞き書きの延長にあることは間違いありません。
しかしぼくがなぜCP者に関心を強く抱くのか?

「障害学」という言葉もありますが、ぼくは決してそういった方面に明るい訳ではありません。
知識も無いし、実践もない。
今後勉強をしていかなくてはいけないと思っています。
だけど、自分が社会貢献として奉仕活動をするかというと、それはおそらくないでしょう。
ぼくは自分の仕事以外に社会貢献として(無料で)小児がんの卒業生(サバイバー)の相談に乗ったり、日本中のセカンドオピニオンを今でも引き受けています。
正直なところ、これで手一杯です。

ではなぜここまでCP者のことを深く知ろうとするのでしょうか?

それは、ぼくの興味の核心が昔から一貫して「人間とはなにか?」「人間の尊厳とはなにか?」という点にあるからです。
CP者が、人としての尊厳をないがしろにされている点がもしあるならば、それは許し難いし、社会に向かって「大いなる叫び」をあげたいと感じてしまうのです。

人類学の本などを読んでいると、よく「人の特性」とか「人間の定義みたいなもの」が出てきますよね?
ぼくはあれに反発を感じてしまう。
ある人はこう言います。
人の特徴は六つ。
・大きな脳
・直立二足歩行
・言語と言語能力
・道具の製作と使用
・火の使用
・文化

へそ曲がりなぼくは、では重度心身障害児者はヒトではないのですか?と聞きたくなる。ま、ちょっと極端ですかね。

しかしヒトを定義する時に「特性」から入っていくというのは間違っていると思うんです。
だってまず存在するんだから。

従ってぼくが考えたヒトの定義はこうなります。
「ヒトとはヒトから産まれた生き物」。