岡村青の「脳性マヒ者と生きる 大仏空の生涯」その2 ― 2014年07月27日 15時59分08秒
大仏空(おさらぎ あきら)さんは、なぜCP者の解放区を作ろうとしたのでしょうか?
一番の理由は父親との葛藤かもしれない。
男という生き物は、多かれ少なかれ父親を乗り越えようとするものです。
大仏さんの父親は、檀家を持たない托鉢僧・乞食僧だったのですが、自分の寺を大きくする中で、金持ちや上流の人達とだけ付き合うようになった。
大仏さんにはそれが納得できなかったのかもしれない。
社会運動や農民運動もやっていた。孤児院でも働いていた。
そしてそんなある時に、CP者に出会った。
親鸞の「悪人正機説」の「悪人」とはまさにCP者であると悟ったのでしょう。
マハラバ村に集まってくるCP者はいずれも、被害者意識が強く、社会性が欠如し、人間不信があって、その結果、共に生きていこうと意識に著しく欠けます。
相互不信は対立や闘争になり、やがて共同体は崩壊します。
ところが不思議なことに、彼らは、最初に村を出て川崎に戻ったメンバーの元に集まっていく。
やはり個人として孤独に生きることはできないかのように見えます。
映画「さようならCP」でも、全員が一室に集まっている場面があります。ところが途中で喧嘩になったりしちゃうんですけれど。
健全者には窺い知れない、彼らなりの結びつきがあるのでしょうか?
いずれにしても大仏空がいなければマハラバ村はできなかった。
マハラバ村が無ければ、「青い芝の会・神奈川県連合会」はできなかった。
神奈川の青い芝の会が無ければ、横塚さんも横田さんも障害者解放の運動をしなかった訳ですから、日本に「優生保護法」が居残り続け、障害胎児が堕胎されることが法律で認められてしまった可能性が高い。
イギリスを中心としたヨーロッパで「胎児条項」が認められている最大の理由(正当性)は、障害児が生まれてしまった場合は手厚く福祉の援助をするというダブルスタンダードの仕組みにあるんです。
だけど、日本という国は、「二重基準」とは「二枚舌」みたいなものですから、これにうまく馴染まない。
われわれは案外潔癖な民族なのだと思います。
日本は恥の文化、キリスト教文化圏は罪の文化と言います。
しかし、「水子供養」って世界で日本だけでしょ?
もちろん、この供養にはお寺さんの資本主義が深くからんでいることは知っていますが、日本人の心の中には水子に対する罪の意識があって、それが母親を苦しめているのではないでしょうか。
日本の神話を紐解くと、イザナギ命とイザナミ命が赤ちゃんを授かります。しかしその赤ちゃんは全身がぐにゃぐにゃで葦の舟に乗せられて流されてしまう。
この赤ちゃんはCPですよね?
流れ去った蛭子(ヒルコ)は、やがて幸福の神様・蛭子(エビス)様となって帰って来ます。
なぜでしょう?
それは私たちが、水子供養と同じようにCP児を捨てたことを後ろめたく思っているからではないでしょうか?
だから商売繁盛の神様としてカムバックさせて贖罪しているのだと思います。
青い芝の会には4つの行動綱領があって、その1番目は「われわれはCP者であることを自覚する」というものです。
自覚。大事ですよね。
CP者がCPであることから逃げてはいけない。
理解すること、自覚すること。自分が疎外されていると、痛いほど理解する。
その理解が、疎外からの解放の第一歩なのでしょう。
ハンナ・アーレントを読んでいても、「理解する」「考える」ということが語義以上に人生においては重要とよくわかります。
オンデマンドのような形でデジタルになりませんかね?素晴らしい作品です。
一番の理由は父親との葛藤かもしれない。
男という生き物は、多かれ少なかれ父親を乗り越えようとするものです。
大仏さんの父親は、檀家を持たない托鉢僧・乞食僧だったのですが、自分の寺を大きくする中で、金持ちや上流の人達とだけ付き合うようになった。
大仏さんにはそれが納得できなかったのかもしれない。
社会運動や農民運動もやっていた。孤児院でも働いていた。
そしてそんなある時に、CP者に出会った。
親鸞の「悪人正機説」の「悪人」とはまさにCP者であると悟ったのでしょう。
マハラバ村に集まってくるCP者はいずれも、被害者意識が強く、社会性が欠如し、人間不信があって、その結果、共に生きていこうと意識に著しく欠けます。
相互不信は対立や闘争になり、やがて共同体は崩壊します。
ところが不思議なことに、彼らは、最初に村を出て川崎に戻ったメンバーの元に集まっていく。
やはり個人として孤独に生きることはできないかのように見えます。
映画「さようならCP」でも、全員が一室に集まっている場面があります。ところが途中で喧嘩になったりしちゃうんですけれど。
健全者には窺い知れない、彼らなりの結びつきがあるのでしょうか?
いずれにしても大仏空がいなければマハラバ村はできなかった。
マハラバ村が無ければ、「青い芝の会・神奈川県連合会」はできなかった。
神奈川の青い芝の会が無ければ、横塚さんも横田さんも障害者解放の運動をしなかった訳ですから、日本に「優生保護法」が居残り続け、障害胎児が堕胎されることが法律で認められてしまった可能性が高い。
イギリスを中心としたヨーロッパで「胎児条項」が認められている最大の理由(正当性)は、障害児が生まれてしまった場合は手厚く福祉の援助をするというダブルスタンダードの仕組みにあるんです。
だけど、日本という国は、「二重基準」とは「二枚舌」みたいなものですから、これにうまく馴染まない。
われわれは案外潔癖な民族なのだと思います。
日本は恥の文化、キリスト教文化圏は罪の文化と言います。
しかし、「水子供養」って世界で日本だけでしょ?
もちろん、この供養にはお寺さんの資本主義が深くからんでいることは知っていますが、日本人の心の中には水子に対する罪の意識があって、それが母親を苦しめているのではないでしょうか。
日本の神話を紐解くと、イザナギ命とイザナミ命が赤ちゃんを授かります。しかしその赤ちゃんは全身がぐにゃぐにゃで葦の舟に乗せられて流されてしまう。
この赤ちゃんはCPですよね?
流れ去った蛭子(ヒルコ)は、やがて幸福の神様・蛭子(エビス)様となって帰って来ます。
なぜでしょう?
それは私たちが、水子供養と同じようにCP児を捨てたことを後ろめたく思っているからではないでしょうか?
だから商売繁盛の神様としてカムバックさせて贖罪しているのだと思います。
青い芝の会には4つの行動綱領があって、その1番目は「われわれはCP者であることを自覚する」というものです。
自覚。大事ですよね。
CP者がCPであることから逃げてはいけない。
理解すること、自覚すること。自分が疎外されていると、痛いほど理解する。
その理解が、疎外からの解放の第一歩なのでしょう。
ハンナ・アーレントを読んでいても、「理解する」「考える」ということが語義以上に人生においては重要とよくわかります。
オンデマンドのような形でデジタルになりませんかね?素晴らしい作品です。
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