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「命のカレンダー」を語る その32009年07月05日 20時14分01秒

さて、自著を語る続きです。

第3章には「秀」君と「麻衣」ちゃんが登場します。
僕は医者になって3年目に大学院に進学し、がん遺伝子の研究を行ないます。

研究は非常に順調に進み、業績も上がりました。
1991年頃は、僕の研究は「神経芽腫の分子生物学」という分野では世界のトップの中にいたと思います。
日本小児外科学会から「会長特別表彰・最優秀演題賞」を頂いたのもこの頃です。

ですから本気で医者を辞めようと思っていました。
一生、研究者として生きて行こうと思っていたのです。
分子ウイルス学の清水教授からも、「助手」のポストを用意するから研究室に残らないかと誘われました。

でも、結局、医者を続けた。
その理由はなんでしょう?
今、思い起こしてもよく分からない部分があります。
しかし秀君の存在が大きかったことは間違いありません。

大学院を修了して、松戸市立病院・沼津市立病院・千葉県こども病院へ出張になりますが、松戸市立病院では卵巣がんの女の子に出会っています。
大変たちの悪い卵巣がんで、治療結果は悲しいものでした。
それまで卵巣がんというのは、小児がんの中でも治しやすいがんだと思っていたので、その女の子の治療をきっかけに、論文をたくさん読んで勉強をし直しました。
そして沼津に行って出会ったのが麻衣ちゃんでした。

この病院では小児外科は僕一人でしたから、それは強烈なプレッシャーでした。
患者さんの治療成績の結果はすべて僕が負わなくてはなりません。
ストレスで顔面神経の帯状疱疹になったりしました。

麻衣ちゃんの卵巣がんは最終的に完治させることができましたが、細かい苦労はいくつかありました。
麻衣ちゃんの治療を始めた頃、実は、小児病棟では、僕は看護師さんたちとあまりうまくいっていませんでした。
なぜならば、僕の注文が微に入り細に渡って非常のうるさいので、看護師さんたちが辟易してしまったんですね。

そしてこんな難病の症例を引き受けて、「大丈夫なの?」という冷たい視線をたくさん受けました。

初回の手術で卵巣がんが摘出できなかった時、手術室で僕の顔は引きつっていたそうです。
これは手術室看護師だった家内が後に言ったことです。

小児病棟に戻ると、看護師たちも「手術不可能」という結果にショックを受けたようで、みんなが僕に近寄ってきて、これからどうするのかを聞いてきました。
このあたりからみんなの団結が強まった様な気がします。

抗がん剤で麻衣ちゃんの頭を冷却して脱毛を防ごうと思い、看護師にその計画を持ちかけた時は、「ああ、また面倒なこと言い出したなと思われるかな?」と不安でした。
でも僕が「年頃の女の子なので、少しでも脱毛を防ぎたい」と言ったら、リーダー格の看護師さんが目を赤くして、
「やります!」ときっぱりと言ってくれました。

ちょっと感動しましたね。