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『凍』沢木耕太郎2008年09月05日 20時24分44秒

昨日、沢木耕太郎の『凍』を読みました。
いやあ、めちゃくちゃ面白かった。

世界屈指のクライマー・山野井夫婦の登攀とそこからの奇跡の生還を描いたドキュメントです。
僕は山登りなんかしたことはありませんので、専門用語が出てきて、それを使った動きの描写が出てくると、実際の様子がイメージできません。
でもね、その場の雰囲気とか緊迫感はすべて伝わって来るんです。

あっという間に一気に読んでしまったのは、内容の迫力と共に、沢木さんの文章のうまさによるところが大きいと思います。
無駄の無い、シャープな描写。
本質だけを表現して行くうまさは天賦の才でしょうか?
こんな文章を書ける人に本当にあこがれてしまいます。

しかし、同時にノンフィクションとは何ぞやとも考えさせられました。
それは、本の始まりから終わりまで、山野井夫婦の描写があまりにも微に入り細にわたっているからです。
どこでどう思ったとか、そこで紅茶を飲んだとか、あそこの雪の状態がどうだったとか。
つまり、ここまで細かい描写が可能なのは、山野井夫婦が著者の沢木さんに語ったからですよね?
つまり、沢木さんの本というより山野井夫婦の手記を読んでいるような気がするのです。

おまけに文中、沢木さんの思ったこと感じたことは全然書かれていません。
もちろん、これはドキュメントとしては「あり」なんですが、山野井夫婦自身でも同じようなものが書けたんじゃないかと思ってしまうのです。
では、もしかして、詳細な記述には沢木さんのフィクションが混じっている?
つまり沢木さんにしか書けない?
それはそれで「あり」なんですが、やはり、ではノンフィクションとは何だろうという疑問が再度湧いてきます。

自著『命のカレンダー』は、多くの作家から影響を受けていますが、その中でも柳田邦男さんの文体には学ぶ点が多かったと思います。
柳田邦男さんの『がん回廊の朝』は、繰り返し読んだ作品ですけど、この傑作にはフィクションも混ざっているような気がします。
たとえば、「その時、市川は、、、、と思った」というような場面で、本当に市川さんがその言葉をインタビューで発したのか、疑問に思えることがあるのです。
もちろん、僕は、これを非難して言っているのではありません。
詳細なインタビューをしていけば、市川さんがそう思ったとしか考えられないという結論になる場面もあるはずです。

ノンフィクションって、正確に書けば書くほど、無味乾燥な記述になってしまいます。
ただ単にビデオを回しているだけみたいな。
そこで、事実の中から何を選択するのかという主観がノンフィクションの神髄とも言えます。
このあたりは、本多勝一さんのおっしゃる通り。
したがって、選択の過程に筆者の「思い」が混じることもまた許されるでしょう。

『凍』は面白いだけでなく、ノンフィクションとは何かということまで考えさせてくれる大傑作でした。
ぜひ、おすすめです。