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「星新一 ―一〇〇一話をつくった人 上・下」 (新潮文庫) 最相 葉月2011年08月11日 19時33分07秒

避暑のため別荘に行っていたので、3日ぶりにブログを書きます。

上下巻合わせて800ページくらいの長編ノンフィクションですが、2日ほどで読了しました。
さまざまな賞を受けたある意味ノンフィクション文学の一つの到達点でしょう。
膨大な資料の収集や取材など、これはもう一流のプロの作家でしかなしえない仕事です。

そういう意味では100点満点どころか、120点の作品です。
ですが敢えて言うと、「無いものねだり」ならぬ「有りものねだり」が僕にはあります。

一つは中身が多すぎるのではないか?ということ。
星新一を描くために、小松左京や筒井康隆が登場しますが、そういった部分が分厚すぎて、それはそれで読んでいて面白いのですが、それは過剰に感じられます。
音楽だって絵画だって最高水準の作品には過分も不足もありません。
この著作だって、取材した素材をすべて載せた訳ではもちろん無いと分かっていますが、もっとしぼった方がさらに完成度が上がったと思います。「有りものねだり」ですね。

もう一点は、視点の問題です。
星新一が他界して10年。
ですから、たとえば、「その頃の新一の日記には○○○といった記載がある」とか「以下は○○氏の回想・・・・」といった風に、集めた素材を丁寧に著者の最相さんが「解説」していくわけです。
もちろんその中で、最相さんのコメントが加わって、星新一の心情などを推測してみたりする訳です。
ですが、下巻の356ページにこういう記載があります。

「東急大井町線九品仏駅に近い浄真寺の壮大な仁王門を入ると、ケヤキや大銀杏の巨木が新一を見下ろしていた」

こういう表現の仕方はどうなのでしょうか?
星新一の日記などを読めば、ケヤキのことが書いてあったかもしれません。
ですが表現の仕方によっては、「神の視点」になってしまうと思うのです。
場合によっては、作者が推測・想像で思い描いた文章なのかなと、ぼくのようなへそ曲がりの読者は考え込んでしまうのですね。
これだけ膨大な事実の素材を集めていながら、それは過剰ではないではないかと、、、ま、こんな意見を言うのは僕だけだと思いますが。

星さんの人生には読みどころが一杯あります。
文壇から評価されない悔しさなどもそうですが、ぼくには、文才が枯れて老化の道を歩む過程に興味が惹かれました。
歳を取ってかつての栄光を失った人間がどうやって生きるのか、その苦しみはどうなのか、自分に照らし合わせて考えてしまいました。

僕はまだ40代ですが、大学病院に在籍中は仕事の能力において絶頂期にありました。
国内はもちろん世界中どこへ行っても自分は最高レベルの小児外科医だと思っていましたから、そこから滑り落ちた喪失感というのはいまだに引きずっています。
そしてさらに、自分はあと20年くらいしたら、いろいろなことが出来なくなってまたもや喪失感を味わうのだと思います。

人生を最後まで走り続けるなんて誰にもできないことです。
誰でも、衰え、立ち止まり、やがては後ろを振り返るようになります。
そういうところまで、きちんと書けていた見事な評伝です。