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生と死の倫理―伝統的倫理の崩壊 ピーター シンガー2015年12月02日 19時37分14秒

生と死の倫理―伝統的倫理の崩壊
かなり以前に読んだ本ですが、今回、生命倫理学会に参加したことをきっかけに古本で購入して再読しました。
若い頃には気付かなかったことが、この歳になってたくさん理解できるようになっていました。
彼を「生命倫理における過激派」として一刀両断してしまうことは悪い意味でイージーだと思います。
シンガーの主張には、理論的な裏支えがありますし、大衆の強い支持があります。
従ってシンガーの倫理学を論破するには、それ相当な論理の組み立てが必要だとぼくは考えます。

「重度の障害をもった人間の乳児と、イヌやブタの動物を比較した場合、動物の方がすぐれた能力をもっていることに気付くだろう」
これは有名なシンガーの台詞で、また、同時に激しい非難を浴びました。
しかし、と敢えてぼくは言います。
シンガーは、イヌやブタを見下しているのではない。彼は動物保護運動に熱心に取り組んでいるのです。
また、彼は堕胎に関して明らかにプロ・チョイス派(妊婦の選択権を擁護する立場)です。
だからといって彼が生命を軽んじている訳ではありません。
シンガーは菜食主義者なんです。そして彼は言います。
プロ・ライフ(生命の神聖を第一にする立場)に与するならば、死刑制度にも反対すべきだし、環境問題・飢餓問題にも関心を払うべきだし、動物保護にコミットして菜食主義になるべきだと。

シンガーはそういう意味で「筋金入り」です。倫理という思弁に実践が伴っています。
彼の論理を崩すのはそんなに簡単ではないし、「自分はあなたとは違う」みたいな、議論から逃げる方法は正しくないでしょう。

今日は、各論は書きませんが、生命倫理に関する日本と西洋の違いを総論でまとめておきましょう。

まず西洋から。
かつて古代ギリシャでは、子殺しはふつうに行われていたのです。
理由はさまざまですが、大きな意味としては人口調整がその最たるものです。
しかしその子殺しがあまりにも行きすぎていたので、キリスト教の教えが子殺しを抑制することになります。
「生命の神聖」を最も重要に考え、また、姦淫も禁じたため、西洋では1000年以上にわたって堕胎や子殺しは禁じられてきました。
その代わり、遺棄があった。姦淫の証拠を残さず、また子殺しをしなくても済むための方法です。
遺棄が通用したのは、保護のシステムがあったからです。これがコウノトリのゆりかごですね。
現在でもドイツには100カ所以上あると言われています。

キリスト教的な価値観を崩したのは、実はコペルニクスではありません(シンガーはそう書いていますが、それは間違いです)。
コペルニクスもケプラーもニュートンもキリスト教を強く信じていました。
彼らは、神が創った宇宙が「そんな不合理な訳がない」と考えて、キリスト教の枠内で科学の修正を施したのです。

キリスト教価値観を根底から崩したのは、ダーウィンです。
人間は、神によって創られたのではなく、動物から進化したと考えた訳です。
そしてダーウィンのいとこであるゴルトンによって社会ダーウィニズムが誕生します。
社会ダーウィニズムは優性思想と言ってもいい。
強い遺伝子は残し、弱い遺伝子は排除するという考えのもとに、堕胎が復活し、脳死が認められ、安楽死が合法化される訳です。
つまり「生命の神聖」よりも「生命の質」が上位に来るのです。

これは価値の転換であると同時に、古代ギリシャへの先祖返りなんですね。
つまり、西洋社会は
1 子殺しの時代
2 キリスト教的道徳観の時代
3 優性思想の時代
と、3つのフェーズから成り立ち、1と3は同じアナロジーになっている。
そして19世紀に人々の意識が近代化すると、むしろ積極的に優性思想を受け容れることが「近代科学」を理解している証と見なされたのではないでしょうか?

一方の日本。
日本に(大雑把に言えば)キリスト教的道徳観がなかったのは誰にでも分かりますね。
日本の特徴は、やはり古代ギリシャと同様に「間引き」なんです。
そしてそれが明治の初期まで延々と続いてきた歴史があります。
前近代日本では、赤ちゃんが生まれると、お産婆さんが「置きますか?」「戻しますか?」と尋ねたそうです。
宮参りをするまでは「社会の一人」と認められていなかったため、赤ちゃんはここで書くのも憚れるような残酷な方法で間引かれたようです。

「ヤノマミ」という現代のアマゾン先住民を記録した大宅賞受賞作があります。
この部族では、生まれたばかりの赤ちゃんは人間ではなく「精霊」とされています。
森の中で分娩し、赤ちゃんを家に連れて帰れば「人間に」なるし、天に返すと決断すれば間引くことになります。
亡骸は白蟻の巣に葬ってしまいます。

100年前の日本は「ヤノマミ」と何ら変わらなかった訳です。
しかし、大戦後、日本の文化は徐々に成熟します。
日本に優性思想が無い訳ではないことは、先日の茨城県教育委員の発言を見れば明らかです。
しかし、はっきりとした社会ダーウィニズムの形や思想を論理立てて持っていません。
なぜでしょう? それはおそらくキリスト教的道徳観という縛りがなかったから、カウンターパートとしての社会ダーウィニズムが弱かったのではないでしょうか?
それと、戦前に関しては、天皇を頂点とする国家家父長制度が、優性思想と相容れなかった面もあったと思います(産めよ、増やせよ)。

したがって、日本の生命倫理は西洋のように3つのフェーズからはできていません。
一方向に、「生命の神聖」を重く見る方向に流れているのではないでしょうか?
脳死と臓器移植、安楽死問題などは、これからもくり返し論じられることになるとは思いますが、欧米と同じ道は歩まない気がします。
また同時に欧米の真似をしてはいけません。

新型出生前診断で誰も幸福になれない理由は、西洋のアナロジーが(商業主義の面も強いのですが)、強引に文化の異なる日本に入り込んだからではないでしょうか?

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