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冤罪ではない、「狭山事件」2010年05月12日 20時38分54秒

狭山事件の真実
鎌田 慧さんの「狭山事件の真実」(岩波現代文庫)を読みました。

まずこの本の評価に関して書くと、著者は鎌田 慧さんですから、取材力・構成力・筆力、どれをとっても超一級のルポルタージュです。
ですから、それについてはこれ以上は何も書きません。

さて、僕と「狭山事件」の関わりは、、、。

最初に狭山事件に関する本を読んだのは高校生の頃かもしれません。
当時、島崎藤村の「破戒」を読んで、被差別部落問題に関心を持ち、被差別部落出身の石川一雄さんが巻き込まれたこの冤罪事件に興味を引かれたのだと思います。
その当時の本はもう手元にはありません。
タイトルも筆者の名前も憶えていません。

さて、今回鎌田さんの本を読むと、鎌田さんはこの事件がいかにでっち上げられたかを、細かく「証拠」を積み重ねて証明しています。
その作業はもちろん重要ですが、そんなことは不要というくらい、石川さんが無実なのは明白です。

事件が起こった昭和38年といえば、僕は2歳。
でもその時の日本に、貧しさゆえに文字の読み書きができない青年がいたということがとても悲しい。
文字が読めないということは、切符を買えないので電車に乗れないということであり、映画を観に行っても看板の文字が分らないからどういう映画か分らないということです。
当然、事務的な仕事につくことはできない。
石川さんはどれだけ悔しかったでしょう。

ところが狭山事件では、とても有名な「脅迫文」が登場します。
もうそれだけで、石川さんが犯人ではないのは明白です。

狭山事件は部落解放運動との関連から論じられたことも多くありました。
冤罪の背景にこの問題があったことは間違いないと思いますが、僕は事件の本質とはあまり関係ないように思えます。

では事件の本質は何か?
これは冤罪事件ではないと僕は思います。
見込み捜査で犯人を間違えたというレベルをはるかに越えています。
端的に言ってしまえば、狭山事件とは不良警官による個人へのリンチだと思います。
最初は、早く犯人を見つけなければと思ったかもしれない。
しかしそれが高じ、石川さんを犯人に見立てて、ニセの証拠を作り、生け贄の羊にしてしまった。
そこには警察官のサディスティックな気持ち、残虐な心があったと僕は思います。

ですから狭山事件を冤罪事件と呼ぶのは僕は生ぬるいと思います。

獄中で文字を学んだ石川さんは、自分の筆で獄中記を書き、短歌を詠み、上告趣意書を書きます。
この文章・短歌が、見事なんです。
こういう文章を書ける日本人が今、日本でどのくらいいますか?

青年当時、文字の読み書きができなかった石川さんを見て、警察官は知能が低いと思ったかもしれませんが、それは明白な間違いだったのです。
貧困が石川さんに文字を与えなかっただけのことです。

石川さんの自身による上告趣意書によって(まだ再審の道は開かれていませんが)、警察・検察・司法は完全に石川さんに敗北したと僕はみています。

後書きで鎌田さんも述べていますが、石川さんの人生は、結局のところ、学ぶことで得た勝利だったのです。

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