すぐれたノンフィクション文学とは何か? ― 2023年10月06日 21時51分26秒
最近になって、すぐれたノンフィクション文学とは何だろうと考えるようになりました。
昨年度までぼくは大宅壮一ノンフィクション賞の予備選考員を務めていました。
(最小で)1〜(最大で)5冊のすぐれた本を事務局に提出するのですが、このとき必ず「取材が深い」かどうかを選考判断に加えていました。
昨年大賞を受賞した『黒い海』はめちゃくちゃ取材が深くて、よくこういう本を仕上げることができたものだと感嘆しました。
当然、最高点をつけて推薦しました。
でも、最近思うのです。取材が深いことがそれほど立派なことなんでしょうか。
取材は手段であって、その本の本質ではないと思います。
取材の分厚さが高評価に直結してしまうと、長年取材した本が自動的に高評価になってしまうのではないか。それってちょっと違うと思う。
やはり本は基本的におもしろくなくてはいけないし、ノンフィクションには「こんな世界があったのか」という驚きがなくてはいけないと思うのです。
そしてさらには、読者の価値観と人生観を変える力がないといけないと思うようになりました。
つまり、すぐれたノンフィクションの3要素は「おもしろさ」「おどろき」「力」なのではないかな。
そして「おもしろさ」には「文章のうまさ」が相当関係すると思うし、「おどろき」には本を書く「着眼点」みたいなものが必要で、「力」を持つためには事実を追うだけではなく、筆者の「立場」「とか「思想」が試されると思います。
あまり取材の深さや資料の読み込みの多さを評価し過ぎると、賞が努力コンテストみたいになってしまうんじゃないかな。
そういう意味で言うと、『彼は早稲田で死んだ』(樋田毅)が大宅賞を取ったのは良かった。あれは言ってみれば「回想記」でしょう。
文献は参照しているけど、大掛かりな取材をしたわけではない。
ノンフィクションの3要素の一つに「おどろき」を挙げましたが、何十年も生きると「おどろき」ってあまり無くなっていくんですよね。
若い頃は何も知らなかったけど、歳をとるとさまざまなことを知るようになります。
すると、ちょっとノンフィクション作品を見る目が厳しくなってしまうんですよね。
昨年度までぼくは大宅壮一ノンフィクション賞の予備選考員を務めていました。
(最小で)1〜(最大で)5冊のすぐれた本を事務局に提出するのですが、このとき必ず「取材が深い」かどうかを選考判断に加えていました。
昨年大賞を受賞した『黒い海』はめちゃくちゃ取材が深くて、よくこういう本を仕上げることができたものだと感嘆しました。
当然、最高点をつけて推薦しました。
でも、最近思うのです。取材が深いことがそれほど立派なことなんでしょうか。
取材は手段であって、その本の本質ではないと思います。
取材の分厚さが高評価に直結してしまうと、長年取材した本が自動的に高評価になってしまうのではないか。それってちょっと違うと思う。
やはり本は基本的におもしろくなくてはいけないし、ノンフィクションには「こんな世界があったのか」という驚きがなくてはいけないと思うのです。
そしてさらには、読者の価値観と人生観を変える力がないといけないと思うようになりました。
つまり、すぐれたノンフィクションの3要素は「おもしろさ」「おどろき」「力」なのではないかな。
そして「おもしろさ」には「文章のうまさ」が相当関係すると思うし、「おどろき」には本を書く「着眼点」みたいなものが必要で、「力」を持つためには事実を追うだけではなく、筆者の「立場」「とか「思想」が試されると思います。
あまり取材の深さや資料の読み込みの多さを評価し過ぎると、賞が努力コンテストみたいになってしまうんじゃないかな。
そういう意味で言うと、『彼は早稲田で死んだ』(樋田毅)が大宅賞を取ったのは良かった。あれは言ってみれば「回想記」でしょう。
文献は参照しているけど、大掛かりな取材をしたわけではない。
ノンフィクションの3要素の一つに「おどろき」を挙げましたが、何十年も生きると「おどろき」ってあまり無くなっていくんですよね。
若い頃は何も知らなかったけど、歳をとるとさまざまなことを知るようになります。
すると、ちょっとノンフィクション作品を見る目が厳しくなってしまうんですよね。
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