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わが千葉大医学部ラグビー部 その22011年07月01日 21時14分21秒

ぼくがラグビー部に入った時に、チームのキャプテンだったのが平井さん。
ポジションはスタンドオフ。
平井さんのキック力は、医学部のレベルを超えていて、自陣ゴール前5メートルからキック1発で、対角線にボールを飛ばし、相手のゴールラインの手前5メートルまで進んだこともありました。
ハイパントを蹴ると、ボールが見えなくなっちゃうという感じでした。

そしてもう一人のスーパースターが、深谷さん。
スクラムハーフでしたが、フォワードのような体格で、ダイビングパスでボールを放ると、ぼくなんかはキャッチできませんでした。
深谷さんは、千葉大医学部に進学して医者になるか、それとも早稲田大学の体育学部に進学してラグビーの日本代表を目指すか、迷ったという人ですから、そのレベルは「超」医学部生でした。

では、この二人がいた頃、千葉大医学部ラグビー部は強かったかというと、そうだとは言い切れません。
なぜならば、この当時のラグビー部はまだ「近代化」されていなかったからです。
残りの13人も、平井さんと深谷さんに依存していた部分があったと思います。

ぼくと、同級生のO君、Y君が4年生になり、平井さんと深谷さんは引退しました。
キャプテンのO君、バックスリーダーのY君は非常に危機感を深めました。
しかし、ピンチはチャンスでもあります。
ぼくたちは、クラブを近代化させることにしました。

まず初めにやったことは「戦術書」の作成です。
ワープロの無い時代でしたから、ぼくが手書きしました。
コピーして、綴じて。
タイトルは「ガイド・フォー・プレーヤーズ」。

つまりこの当時、うちのチームは、どうすれば試合に勝てるか、意志の統一とかがまったく無かったのです。
ラグビーはルールの変遷が激しいのですが、ぼくらの頃のラグビーの原理は「陣取り合戦」にありました。
従って、「ガイド・フォー・プレーヤーズ」では、徹底的にそのことを説きました。

結果として選んだ戦術は、フォワードによるサイド攻撃と、バックスによる激しいタックルです。
言い換えれば、攻めるのはフォワード、守るのはバックス。

当然、バックスの選手から不満が出ましたが、1年間この戦術を通しました。
いえ、それまでは、「戦術を通す」という概念もありませんでした。
原理原則を掲げて、徹底的に陣取り合戦に拘ったのです。
戦術面だけではありません。

一つのポジションに、選手を二人以上配置。
また、逆に、一人の選手に二つ以上のポジションを練習させました。
それまでは、最高学年の先輩は練習に出てこなくても、試合に出場していましたが、こういう習慣もばっさりと断ちました。
(当然、多方面から反発を買いました)

以前のラグビー部には、部員同士の競い合いというものが無かった訳です。
ぼくたちが責任学年になり、チームが近代化された後は、6年間練習しても公式戦に出場できない部員も出てきました。

ま、チームのOBの先生たちは、皆さんが、「我こそがチームを強くした」という自負を持っていると思います。
その気持ちは大変よく分かりますが、関東医歯薬リーグでの戦歴を見れば、ぼくたちの近代化がすべての始まりだったということが、よく分かると思います。

ぼく自身も、クラブの雰囲気を悪くしたという批判を先輩や後輩から多数頂きましたが、今日につながる道筋をつけ、扉を開け放った訳ですから、全然後悔はありません。

いま現在、現役でラグビーをやっている学生たちは、今のスタイルを「当たり前」と認識しているでしょうが、ぼくが1年生の時と、6年生の時では、クラブは完全に様変わりしていたのです。

わが千葉大医学部ラグビー部 その12011年06月28日 20時58分42秒

最近自転車で走るようになって、思いの外、脚力がちゃんとしていることに気付かされました。
それはおそらく医学部の頃にラグビーで鍛えたからでしょう。

現在の千葉大医学部ラグビー部は、実力だけでなく、その歴史と伝統を踏まえた組織力は大変充実しているようです。

http://chiba-mrfc.d2.r-cms.jp/

ぼくにとって学生時代の6年間とは、ラグビー部の6年間であり、あんなに楽しかったことは、もう二度とは経験できないと思います。
最高のクラブでした。

さて、ぼくがラグビー部に入った最大の理由は、当時のラグビー部にはほとんど歴史がなく、OBも数えるほどしかいなかったからです。
ぼくはクラブというものは、学生が自分たちでやるものだと考えていますから、OBが「OB面」して偉そうに指導しに来るクラブには入りたくありませんでした。

また、当時のラグビー部は、酒好きの先輩が揃っており、上級生は下級生に酒を「飲ませる」ということをしませんでした。
何しろ、「一気! 一気! 一気! 一気!」の時代でしたから、ラグビー部は相当変わっていました。
なぜ、下級生に酒を飲ませないかというと、先輩たちが、人に酒をやるのは惜しいと、自分で飲んでしまうからです。
本当に酒豪揃いでしたよ。
ぼくはまったくお酒を飲めなかったので、酒を強要されないラグビー部というのは、入部するかなり強力な動機になりました。(今は、どのクラブでも同じでしょう)

クラブは学生のもの、、、この信念は今でも変わっていません。
従って、クラブには顔を出しません。
後輩が寄付の依頼に電話をかけてきたりしますが、これも全部断っています。
お金が無いなら、無い範囲でクラブをやるべきです。
ぼくらの頃は、車を持っていない学生などいくらでもいました。
今はどうですか?
ラグビーボールだって、使い古しのものばかりでした。
自分たちで出来る環境の中でクラブをやればいいのです。

さて、現在でも試合用ジャージはグレーでしょうか?
このジャージの色を選んだのは、ぼくです。
ただ、ラグビー部のHPを見ると、当時、強かった同志社をイメージしたようだと書いてありますが、そうではありません。

ぼくが単にシルバーというか、グレーというか、そういう色が好きだったからです。
そして襟は、エンジ色を考えていましたが、ショップに行ったら、紺色しかなかったので、紺に決めたのです。

ぼくの先輩には、大変身体能力の高いスーパースターのようなプレーヤーが何人もいますが、クラブの総合力が強くなったのは、ぼくと同級生の仲間3人が、チームの基礎を作ったからだと自負しています。
つまり、千葉大医学部ラグビー部の近代化の歴史をスタートさせたのは、自分たちだという誇りがあります。
今度、時間があったら、じっくりとそのあたりを書きましょう。

馬刺しを食べた2011年05月28日 22時22分04秒

馬刺し
蘇我の「銀寿司」で馬刺しを食べました。
メンバーは、同じ釜の飯を食った小児外科の先輩と同級生。
今はみんな開業しています。

もちろん、馬刺し以外にも沢山食べましたが、美味しいのって何のって。

2週間、自転車を漕いだのがチャラになりそうです。
大満足です。

兄弟でもこんなに違う2010年07月13日 20時39分28秒

日経ビジネス・オンラインというのを読むと、僕の兄が、合計5回の連載でデカデカと登場しています。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100707/215299/

なんでも電子書籍に関することで、兄と立命館大学の偉い先生が対談したそうです。
兄の顔写真も大きな映像でドカーンと出ています。

興味のある方はぜひ読んでみてください、、、と言いたいところだけど、肝心の僕は読んでも意味がさっぱり分りません。
まるでドイツ語かフランス語を読んでるみたいでチンプンカンプン。
兄はエンジニアですから、僕とは生きている業界が全然異なります。

それにしたって兄弟でこんなにも違うものか?
ところがね、顔は似ているんです。
中学や高校時代は、よく間違えられたものです。

兄はエンジニアと書きましたが、その反面、「読書の力」はものすごいものがあります。
本を読むスピードが常人離れしていて、僕の2倍、3倍の本を読みます。

そんな兄ですから、電子書籍などというビジネス分野は兄のためにあるようなものかもしれませんね。

名古屋で飲んだ2010年06月19日 19時44分59秒

びわ
日本小児外科学会に参加してきました。
日中は真面目に勉強して、夜は痛飲しました。

九州大学の田尻先生、
広島大学の檜山先生はいつものメンバーですが、
これに自治医大や大阪大学関連の先生が集って、気が付けば15人を超える大所帯になってしまいました。
若い先生もいたし、学会を代表するような高名な先生も混じっていました。
ま、しかし、硬いことは抜きにして乾杯しましょう!

真面目な話もたくさんしましたが、田尻先生と檜山先生がからみ合うと、どうしても掛け合い漫才になってしまいます。
日本の小児がんの研究と治療を代表するこの二人ですが、仕事を離れると本当にごく普通の「おじさん」です。

多いに飲んで、多いに笑って、楽しい時間は走り抜けるようにあっという間に過ぎていってしまいました。

まあ、また飲みましょう。
人生は長い。
時間はいくらでも作れば良いのだから。

さて、実はこの学会のためにサイバーショットを買ったようなものなのですが、直前でmicroSDが壊れてしまいました。
従って、飲み会の写真はなし。
重いサイバーショットを名古屋まで持って行って役に立たないとは。
急に愛着が減ってしまいました。
軽い機種に買い替えてやろうかな。

あっという間の一泊二日が終わって帰宅すると、僕の大好物のびわが待っていました。
幸せです。

堀江先生、お疲れさまでした。2010年03月12日 22時02分21秒

千葉県こども病院の堀江先生が定年退官を迎えました。
今夜は、堀江先生を囲む会が開催されました。

集ったのは、千葉大病院小児外科の先生たち、千葉県こどの病院の小児科の先生たち、病理学に関係する先生たち、そして看護師やパラメディカル。
大盛況でした。

堀江先生のお仕事は、直接は患者さんから感謝されることはありません。
しかし千葉県の子どもたちは、日本一の病理の先生がいたことによって、とても質の高い医療を20年以上も受けることができたのです。

僕も小児がんを専門にしていましたから、堀江先生と一緒に覗いた標本の数は数えきれません。
おそらく僕は日本一たくさん病理標本を見た小児外科医でしょう。
そのあたりのことは、拙著「命のダイアリー」でも書きました。

実は、堀江先生との送別会は、個人的に昨年の夏に済ませています。
千葉県がんセンターの中川原先生と一緒に送別会を行ったのです。

堀江先生とのご縁はこれで切れた訳ではもちろんありません。
夏になったら、中川原先生ともども、また飲みに行くことになるでしょう。

友と語らう 小児がん学会で2009年11月29日 18時25分05秒

小児がん学会があって、舞浜に行ってきました。
不謹慎かもしれませんが、お目当ては友人に会うこと。

懇親会に参加すると、友人・知人、いろいろな方が声をかけてくれます。
小児科の先生も小児外科の先生も。
若手の先生から、「教授」や「病院長」といったベテラン先生まで、実に多くの方から話しかけられました。

小児がんの治療の一線から身を引いた僕としては、自分ってすっかり過去の人間、みんなから忘れられているだろうなと思っていたのですが、ここまで暖かく迎えてくれて、嬉しいじゃないですか。

懇親会が終わった後は、小児固形がんと闘ってきた「小児外科医」「小児科医」の「同志」でさらに飲みに行きました。
総勢30人くらいでしょうか?

名前を挙げていけば切りがありませんので書きませんが、こうやって仲間に加えてもらえるのは本当に嬉しい。
そして楽しい時間を過ごしました。

おっと気が付いたらもう終電の時間です。
今度会えるのは何年後でしょうか。
また会いましょう。それまで元気で。

爆笑! 披露宴2009年11月09日 19時18分51秒

昨日の午後、舞浜に出かけました。
僕の後輩のY先生が結婚披露宴を催したからです。

礼服からネクタイ、靴下まで全部家内が用意してくれます。
ま、僕は几帳面な人間ですがそれは仕事の話だけ。
身の回りのことはまったくできません。

さて準備を整えて玄関で革靴を履くと、やけにきつい。
靴べらを使ってどうにか履きました。

自宅を出てモノレールに乗り込むと、靴のきつさが気になります。
車内は空いていますので、どっかり足を組んで靴ひもを緩めて結び直しました。

ところがしばらくすると、やはり靴のきつさが気になる。
もう一度さらに緩めます。
電車を乗り継いで舞浜へ。
すごいですね、舞浜って。
こんな所なんですね。

さていよいよ披露宴の開始です。
可愛いお嫁さんをもらってY先生、幸せそう。
スモーク、光、音楽の豪華な宴です。
お、千葉大小児外科の教授が主賓としてスピーチに立ちました。
襟を正して聞きましょう。

あれ? こんな時に携帯電話が振動しています。
中学一年の娘からメールです。
こんな大事な時に、まさか、緊急の非常事態?
メールを読むと、、、、
「父ちゃん! 私の靴、履いていったよ!」

ぶっ! 
教授がスピーチしているのに、吹き出してしまった。
ここは我慢。
笑いをこらえなければなりません!

しかしまあ考えてみれば、あの靴のきつさは尋常でなかった。
玄関で気付くべきでしたね。
狭いものを無理やり暴力的に広げることを、医学用語でブジーと言いますが、娘の靴はみごとに僕の足でブジーされてしまいました。

橋都先生の「痛快!総長ブログ!」2009年10月24日 16時49分24秒

東京西徳州会病院総長の橋都(はしづめ)先生からメールをもらいました。
橋都先生は、東大小児外科の前教授で、僕がもっとも尊敬する先生のお一人です。
先生の近況をメールで知ると同時に、先生が書いているブログの最新記事にも目を通してみました。

するとそこには、東京オリンピックの招致の失敗について、厳しい記事が。
http://blogs.yahoo.co.jp/hashi_wineclub/33511491.html
都知事のことを痛烈に批判していますが、これは痛快なブログです。
僕もまったく同じ意見です。
それにしても橋都先生、よくここまで書けますね。

僕のブログは何でもかんでも、遠慮会釈無く書いていると、人から揶揄されたり、からかわれたり、批判されたり、怒られたりします。
ところが面白いことに、人から批判を浴びるブログを書いた時って、必ず別の人から「よくぞ言ってくれた!」とメールやコメントがつくのです。

東京都知事のことは、これまでに何度か書こうと思いましたが、はっきり言って書けない。
それは反響が怖いからです。
ネットの世界には思慮の足りないウルトラ右翼がたくさんいて、僕のこういうブログにまで嫌がらせのコメント送り付けてきたりします。
僕の友人の新聞記者が、「私たちはなぜ許すのか」と、この知事の暴言を許す我々の態度を問題提起した記事を書いたところ、抗議の葉書が山ほど来たと言います。

ですからそういう話を聞くと自己規制してしまうのですね。

何でもかんでも僕のブログは自己規制だらけです。
しかし人生の残り時間は短い。
橋都先生を見習って、僕も言いたいことをどんどん言っていきましょう。

忘れないように、草深先生2009年10月06日 23時51分01秒

先日、日大・小児外科の教授、草深先生の訃報に接し大変なショックを受けましたが、その思いは時が経っても薄れることはありません。

草深先生とは「飲み友達」でも無ければ、「個人的な悩みを打ち明ける友人」でもありませんでした。
しかし同世代・同年代として、共に小児がんに立ち向かった仲間ですから、言って見れば「戦友」でしょう。

日本小児外科学会に所属する2500人の医師のうち、いわゆる「名誉会員」という称号を得ている方は、お亡くなりになると追悼記事が学会誌に掲載されます。
しかし草深先生のように年齢の若い現役バリバリの先生にまさかのことがあっても、学会から我々会員に連絡が来るなんてことはありません。

そういったことは、日本外科学会でも日本小児科学会でもやっていないでしょう。
しかし小児外科学会なんて、こんなにも小さな学会なんだから、全会員にメールで訃報を送れないものでしょうか?

僕はお線香をあげることができなかったこともショックでしたが、日本中のほとんどの小児外科医に知られずに先生があの世に旅立たなくてはならなかったことも辛かった。
研修医だろうが教授だろうが、人の記憶に刻まれないというのは何とも切ない。

改めて草深先生のことを記したのは、つい先日、1通の手紙をもらったからです。
差出人は、僕が直接には知らない人。
その方は、僕の書いたブログでの追悼文を読んで、心に感じるものがあり手紙をくれたそうです。
草深先生を偲んでいる人は、この世にいっぱいいます。
せめて僕は、ずっとずっと忘れないようにしたいと思います。