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悪役2013年03月25日 21時28分56秒

昨日からアメリカ映画に関する評論の日本語訳を読んでいるのですが、どうしても文章になじむことができません。
翻訳が悪いのだと思います。

翻訳者自身は自分で書いた訳文(日本語)をどう思っているのでしょうか?
また編集者は?
意味の通じない日本語を書いているなという自覚があるならば、なんとか意訳して良い日本語へ書き換えるべきです。

別の本の一行目にこういう文章があります。
「ドクター・ケイ・スカーペッタの手術衣に、脳組織が水気を吸った灰色の埃のように飛び散った」

日本語は述語中心です。つまり「かかられる言葉」を中心に文章を書く必要がある。
この場合、「かかられる言葉」は、「飛び散った」です。
いっぽう、「かかる言葉」は、「ドクター・ケイ・スカーペッタの手術衣に」と「脳組織が」と「水気を吸った灰色の埃のように」の三つになります。
「かかる言葉」は、長い語(句)から先に並べていきます。そうしないと、「脳組織が水気を吸った」というように誤読してしまうからです。
だから、正しい語順は、「ドクター・ケイ・スカーペッタの手術衣に」「水気を吸った灰色の埃のように」「脳組織が」「飛び散った」です。
もし、順序を入れ替えたいならば、読点が必要になります。
つまり、
「脳組織が、水気を吸った灰色の埃のように飛び散った」となるのですね。

ですが、「水気を吸った灰色の埃」とは一体なんでしょうか?
こういう日本語はありますか?
これは「湿った灰色の埃」のことではないでしょうか?

つまりこの文章が表現しているのは以下のような情景だと思います。
「ドクター・ケイ・スカーペッタの手術衣に脳組織が飛び散った。まるで、湿った灰色の埃が舞うようだった」

英語は(他のヨーロッパ語も同じだと思いますが)、分詞構文や関係代名詞でうしろからどんどん説明をくっつけていくでしょ?
それを忠実に翻訳するとすごく分かりにくい翻訳文になる。
なぜ英語がそうなっているかというと、英語は主語を省略できないからでしょう。
説明を延々と伸ばすと、同じ主語を何度もくり返す必要ができてきます。
文章が単調になり、読みにくくなります。だから、うしろから説明を重ねていくのだと思います。

しかし日本語は主語を省略することが可能です。
ある人は、主語が文章を飛び越えると表現します。
たとえば以下の文章。

「ブログを毎日書くのは疲れる。時間も奪う。視力にも悪影響を与える。時々いやになる。でも、楽しみもたくさんある。読者がついているからだ」
どうでしょうか?
「ブログを毎日書くのは」が主語で、この言葉が2番目以降の文章の隠れた主語になっています。
省略が可能とも言えるし、文章を飛び越えるとも言えます。

日本語と英語では統語法(シンタックス)がまるで違う訳ですから、その壁を乗り越えて翻訳して欲しいですよね。
ま、歳を取るとこんな理屈をこねる訳です。
完全に悪役だなあ。