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現代思想2012年6月号 特集=尊厳死は誰のものか 終末期医療のリアル2015年12月28日 23時25分48秒

現代思想2012年6月号 特集=尊厳死は誰のものか 終末期医療のリアル
川口有美子さん、児玉真美さんの文章が掲載されているのを知って読みました。

イギリス語文化圏の生命倫理観は、その背景に医療資源などの経済的な理由があるものの、キリスト教的な戒律の世界からどんどん逆行していくように見えます。
生命の神聖は大事にされず、生命の質だけが重視されてしまう。
つまり、近代科学万能主義が変形した優性思想を身にまとい、プラグマティズムが幅を利かせている趣があります。

一方、日本では、これだけ経済が疲弊していても、生命の神聖は時代と共に重要視されているように見えます。
ぼくは、1970年代の新聞を、事情があって数年分読んだ経験がありますが、その頃の日本では障害児に対する子殺しが頻発していました。
親の愛という名のもとに子どもは殺されていたのですが、それに抗議したのが「青い芝の会」であることは皆さん、ご存じでしょう。

今の時代だったら、親が赤ちゃんを殺めれば非難囂々だと思います。
イギリス語文化圏では「無益な医療」はどんどん行われなくなっていっていますが、日本はまだマシです。
13/18トリソミーの赤ちゃんは、かつて「無益」と思われ治療されませんでしたが、現代はそうではありません。
いえ、もちろん古い考え方を持った医者もいるし、古い医者は偏見を捨てることができませんが、若い医者の多くはトリソミーの赤ちゃんをどうにかしたいと考えています。

人間の生命倫理観は絶対に宗教観と関係があるはずです。ま、カルチャーと言ってもいい。
日本人はいったいどういう宗教観を持っているのでしょうか?
かつて山本七平さんは、「日本教」などという概念を作り出しましたが、「神道」とも「仏教」とも「儒教」とも異なる、何か特別なものを持っていることは間違いありません。
「菊と刀」のように両極端な二種の性質を持ちつつ、民族全体としては大変均一的で横並びです。
誰が時代をリードしているのかわかりませんが、何か社会現象が起きると極端に一方に流れるのは、まさに「菊と刀」でしょう。

尊厳死は結局、日本の文化になじまないし、法制化もされないと思います。
線を引きにくいものに対して、曖昧なままにしておくというのは、案外、日本人の好むところです。
脳死が日本でなかなか議論が定まらなかったのも、和田心臓移植事件という「犯罪」があったせいもありますが、脳死の概念が国民一般に浸透しなかったからだと思います。

尊厳も同じことで、何をもって尊厳とするか私たちには決めきれないと感じます。
1970年代と異なり、現代ではどんな理由があっても「殺していい」という道徳は生まれないでしょう。
日本が死刑制度を頑固に維持していることとどこかでつながっているように思えます。

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