アクセスカウンター
アクセスカウンター

個人的な体験 (新潮文庫) 大江 健三郎2013年09月08日 21時05分55秒

個人的な体験
「個人的な体験」というタイトルですが、決して「私小説」ではありません。
もちろんお子さんの病気(障害)をモチーフにしていますが、ここに書かれていることはほぼすべてが創造でしょう。

主人公は鳥(バード)。
鳥(バード)というのは翼を持ち自由に空を飛ぶ生き物です。
ところがこの鳥(バード)は大変不自由な上、まるで老人のような弱々しい存在です。
自分のお嫁さんが赤ちゃんを出産しようとしているのに、アフリカ旅行を夢見る現実回避の男です。
そのアフリカ旅行もロードマップを買うだけで、何の準備もできていないと言っていいかと思います。

職業は、予備校の講師。
こういう言い方は大変失礼かもしれませんが、銀行員などとは違ってとても危ういポジションにいます。

そんな鳥(バード)が授かった赤ちゃんには頭瘤という病気(将来に障害を残す)があります。
彼は自分の子どもを「怪物」と表現します。
つまり完全に我が子を拒んでいるのですね。
そしてその拒絶感は、鳥(バード)の義母も同様です。
彼と義母は、赤ちゃんが命果てることを望み、そのように仕向けます。

赤ちゃんは取り上げた産科医もそれは同じです。
生命の誕生にあたって、産科医は赤ちゃんの男女の別を真っ先に両親に伝えるものです。
ところがこの医者は「忘れちゃったなあ」とまるで他人事です。
未来に向かって生きていく「人」として見なしていないのですね。
そしてはっきりと「早く死ぬほうがいいだろう」と言います。
この本が書かれた時代を考えると、ある意味リアルだとも言えます。

赤ちゃんは鳥(バード)からどんどん遠ざかり、彼の手には触れないところへ行ってしまいます。
抱かなければ何の愛情も生まれません。

親族にとって頭瘤という奇形は、拒否したい病気であって、義母は赤ちゃんの病気を心臓病にしようとします。
ここにはっきりと障害児に対する偏見が表出されています。
この赤ちゃんは心臓病で死ぬのです。

鳥(バード)は人生を正面から受け止めようとしません。
だから障害児を授かったこと「罰」と受け止めます。これでは「受容」は不可能です。

結果、鳥(バード)は酒と性欲に逃走をはかり、自分の赤ちゃんを「生涯の最初で最大の敵」と考えるに至ります。
だから赤ちゃんの入院手続きのために3万円払う際に、アフリカへ旅する標識を抜き取られるような感覚に陥ります。
悲惨ですね。

だけどちょっと示唆に富むことも鳥(バード)は言っているんです。
個人的な体験の洞穴をどんどん進んでいくと、やがて、人間一般にかかわる真実の展望のひらける抜け道に出ることができると(意訳です)。
でも鳥(バード)は全然、そいうことを実行できず、ひたすら絶望的に深く掘り進んで行ってしまう。

なかなか死なない赤ちゃんを見て、鳥(バード)は我が子を「殺人医」のもとへ連れて行きます。
ここでも彼は無責任なんです。つまり、他人によって赤ちゃんを殺してもらおうと考えているから。
そこで命の究極において彼は悟ります。
「欺瞞なしの方法は、自分の手で直接に縊り殺すか、あるいは、かれをひきうけて育ててゆくかの、ふたつにひとつしかない」と。
鳥(バード)が我が子を受容するのは、最後の7ページの段階です。それも突然に何のきっかけもなく受容します。
これは何を意味しているのでしょうか?

小説の中の時間軸では数日に過ぎませんが、本という体裁の中では、2%のページ数しか我が子を受容していません。
つまり自分の子どもの障害を受容するためには時間がかかるということを暗示しており、受容には明確なきっかけがないことを意味しているのです。
そしてさらに重要なことは、最後の7ページで、鳥(バード)の義父母は完全に障害児を受容しています。
あれ程、障害児の死を望んだ義母がなぜこんなに簡単に受容してしまったのでしょうか?
それは、これが本当の受容ではないからです。
「仮りの受容」と言ってもいいし、「螺旋型の受容」と言ってもいい。
つまり鳥(バード)の家族はどこかの時点で、この赤ちゃんを再度、拒否する可能性があること暗示している訳です。

障害の受容とは何かということを描ききった大江健三郎先生の初期の大傑作です。
だけど、障害児と関わった経験の無い読者にはちょっと難しい本かもしれません。