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天国に行きたい人でも、死にたい人はいない2015年10月28日 17時59分22秒

1987年に発表された東京女子医大の「NICUにおける医療方針決定のためのクラス分け」は、今日、その実用的意義を失っているものと思い込んでいましたが、先日発刊された「出生と死をめぐる生命倫理(医学書院・仁志田博司)を読むと、ほぼそっくりそのまま現在でも存続しており、大変、驚きました。

このクラス分けは以下のようになります。
クラスA あらゆる治療を行う
クラスB 一定限度以上の治療は行わない(心臓手術や血液透析など)
クラスC 現在行っている以上の治療は行わず一般的養護(保護、栄養、清拭、愛情)に徹する
クラスD これまでの治療をすべて中止する

現代の医療が高度化・複雑化した中で、治療の選択肢がたった4つしかないというのはあり得るのでしょうか?
あまりにも単純すぎて時代遅れではないでしょうか?

たとえば、18トリソミーの赤ちゃんが食道閉鎖を合併していたら、本当にクラスCでいいのですか?
食道閉鎖を手術しなければ赤ちゃんは、餓死します。
餓死させることが倫理的なのか強い疑問があります。

では、クラスBですか? 
胃瘻のみ造設ですか? それとも、食道バンディングも行いますか?
いえ、食道食道吻合をした方が倫理的なのではないですか?
ではさらに、心奇形を合併していたとします。
手術をすれば自宅に帰れるとします。
心臓病を放置することが倫理的ですか? クラスA と考えて出来うるすべての医療をおこなうことが、最も倫理的なのではないでしょうか?

先天的な理由、あるいは出産前後の理由によって脳に重篤な障害がある赤ちゃんがいます。
こうした赤ちゃんにどこまで医療をおこなうか、こどもの「最善の利益」を基準に考えることになります。
しかし、「最善の利益」を決定するのは誰でしょうか?

たしかに医療の中には、「看取りの医療」が必要なことがあります。
小児がんの末期がそうですね。
1日ごとに、お腹がぱんぱんに腫れ上がって、毎日輸血が必要になって、酸素投与なしには呼吸困難になってしまう末期の状態です。
すべての抗がん剤を使い果たしたあとでは、ただ、最期の瞬間を待つだけです。
こういう場合、ぼくは麻酔科医と緊密に連絡をとって、少しでも痛みを取り除くことを考えます。

では、重篤な障害を持った赤ちゃんの場合はどうでしょうか?
生命予後が極めて不良でも、生活の質が相当不良でも、がんの末期のように、死が寸前で、耐え難い苦痛があるという状態ではないでしょう。

こうした赤ちゃんの「最善の利益」を決める時、医者や保護者は「このまま生きていたら赤ちゃんが可愛そう」という利益の代弁をします。
しかしそれは本当でしょうか?
可愛そうなのは、赤ちゃんではなくて、保護者自身と言うことはありませんか?
その子を諦めて、次の赤ちゃんに期待する・・・・という心理は働いていませんか?
医者だって、心の中で「こんな子は生きていても仕方がない」という医療的無力感はありませんか?

「天国に行きたい人でも、死にたい人はいない」という言葉があります。
苦痛がない限り、人は生きていたいと思うものです。
それはどんな障害を持った赤ちゃんでも同じです。
従って、どれほど重い障害があっても、クラスA を基準にして医療をスタートするのが倫理的ではないでしょうか?

大人にはALSという病気があります。
この病気に罹るとやがて呼吸器が必要になります。
ある文献を調べたところ、ALSの患者の半数以上が呼吸器装着を拒否して死を選択するそうです。

だからといって、重症児の赤ちゃんも「生きることを望んでいない」と考えるのはまったく間違いです。
ALSの患者には、病気が進行した先には意志の疎通ができず体が完全に動かない(可能性)という苦痛があります。
もし、呼吸器がついてもALSの患者さんに苦痛がなければ、誰も死を選ばないでしょう。
また、患者は家族への負担を重荷に感じます。
「死とは最高の発明」という言葉もある通り、次の世代に席を譲るという考え方もあり得ます。そう考える大人もいるかもしれません。
しかし赤ちゃんが譲る必要はありません。

脊髄髄膜瘤の赤ちゃんが生まれた時に、保護者が手術を拒否したからと言って、クラスC に組み込んでしまうのは倫理的ではありません。
なぜ、手術を希望しないのかを保護者と話し合い、手術のあとに障害が残ってもそれをサポートしていくのが医療者としての本当の倫理です。

外科手術に限らず、治療というのは基本的に患者の苦痛を取り除くものですから、治療を差し控えるというのは、患者に苦痛と我慢を強いるのだと医療者は自覚すべきです。
簡単に看取りの医療と言って欲しくありません。