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障害胎児の生命倫理をめぐる4つの視点2014年10月28日 22時02分49秒

ちょっと小難しい話を書きます。

障害胎児を中絶することは倫理的に許されるのか?
日本では法的に許されていませんし、倫理的にも許容されているとは言えないでしょう。
では欧米ではどうでしょうか?

4つの視点があります。
簡単に論じるために、あまり多くの国は登場させないことにします。
まずイギリス。
イギリスでは医療費が原則無料ですから、国が医療のあり方に介入してきます。
二分脊椎やダウン症の子を、出生前診断で「間引いた」場合と、検査せずに産ませて治療した場合で、どちらがコストがかからないかを計算する訳です。
経済の論理が生命倫理を超えてしまうのですね。
もちろん、こんな医療が正しいはずがありません。論外です。

フランスも出生前診断が盛んです。
その理由はいくつかありますが、この国の特異なところは、優性思想を肯定しているところにあります。
「ソフトな優性思想である」と自らが認めているのですね。
優性思想が大変危険なことは、改めてここで書く必要はないでしょう。
きわめて危険な思想が跋扈している社会と言えます。

アメリカでは二つの考え方が対立しています。
まず、プロライフ派。「プロ」というのは「〜〜に与する」という意味です。
つまり「ライフ=生命」に与する。
キリスト教保守派の考え方です。
生命は何よりも尊いので、どんなケースでも中絶は許されない。
受精の瞬間から生命は成立するという思想です。

しかし、僕はこれに必ずしも賛成ではありません。
人の命がどの時点で成立するのか?
これはなかなか難しい問題ですが、「脳死」のような考え方を導入すると理解可能かもしれません。
「脳死」というのは、ある瞬間の一点の死ではなく、徐々に脳が腐っていく連続的な死なんですね(これが古典的脳死概念)。
生命も同じではないでしょうか?
受精の瞬間は「生命の萌芽」です。これが週数を重ねるごとに「生命」に連続的に変化していく。
ある一点というのはなかなか決められない。
しかし、子宮外で生きられるか、生きられないかは、かなりはっきりした分岐点のように思えます。
ですから、22週で線を引くのはそれほど間違っていない気がします。
プロライフ派の言うように、どんな生命でも中絶できないというのは、ちょっと難しい面があって、たとえば、強姦によって誕生した生命も中絶できないのが果たして正しいのか、疑問に思います。

逆の立場が、プロチョイス派。
女性には選ぶ権利があるという立場ですね。
こうした考え方は欧米でかなり強く、60年代の公民権運動を経て鍛え上げられてきました。
そして中絶を選ぶ際には、胎児は生命ではないという思想基盤が必要になります。
そこで考え出されたのが「パーソン=人格」論です。
人というのは、パーソンになって初めて人権(=生命)を有するという考え方です。
胎児にはパーソンは無いから中絶は、女性(母親)の権利として大手を振って許されると解釈するのです。

大変危険な考え方ですね。
じゃあ、重度障害児・者には人権は無いんですか?
寝たきりで、会話しない人は、人じゃないんですか?
僕が考える「生命の尊厳」とは、「生きている」から「尊厳がある」というものです。
ですから、「尊厳死」というのは、自家撞着を起こした言葉であって、そんなものは存在しないのです。
ただ、念のために言っておけば、僕は、がんの子どもの末期において、瀕死の子どもに蘇生術を施した経験は一度もありません。

日本でも女性運動の高まりの中で、「女が選ぶ」という主張が台頭した時期がありました。
それに対して「青い芝の会」が、「あなた達に障害児を堕胎する権利があるのか?」 と問いかけた。
その結果、二つの運動体は昇華・止揚して、「女性が産みたい社会、産める社会を国家は作れ。産むか産まないかを国が決めるな」という方向に成熟したのです。

日本の女性運動は、欧米を完全に思想的に凌いでいると思います。

ちなみにイタリアではカトリックの力が大変強く、中絶は合法ですが、産科医たちの中には、「良心的中絶拒否の医者」という人たちがいる。
そして医師が自己のキャリアを積み上げていくためには、中絶に手を出せない。
その結果、あと数年するとイタリアでは中絶が不可能になると言われているそうです。

あいまいな思想性を持つという我が祖国ですが、あんがい、生命倫理はしっかりしているのではないでしょうか?