車とカメラはでかくなる ― 2014年08月19日 22時05分15秒
なぜモデルチェンジのたびにでかくなっていくのでしょうか?
ぼくのように、老人化が進むと、腕の筋力も落ちるし、反射神経も鈍る。
色々な意味で楽をしたくなる。
で、車もカメラも買い換えたくなるのですが、どういう訳か、重くでかくなっていく。
車などはいまや5ナンバーの車種は大変まれになってしまった。
ホンダのレジェンドは当初5ナンバーだったんですよ。
知っていました?
千葉や東京は駐車場が大変狭いため、車幅1800mmを超える車は乗り降りに非常に難儀します。
VWゴルフなんて大変魅力的な車なんですが、横幅がちょうど1800mm。
もうちょっとどうにかなりませんかね。
カメラも大して機能が強化される訳でも無いのに、重くなる。
今月末にはオリンパスのμ4/3が発売予定ですが、20%くらい重さを増すと噂されています。
ぼくの所有する2台は、1台は重すぎるし、1台は描写力が弱い。
新しいものに買い換えたいのですが、一体どれが良いか。
その点、やはりソニーはすごい。
小型軽量高機能は他の追随を許さない。
じゃあ、ソニーを買えば良い?
ソニーは、センサーがAPS-Cなんです。
レンズがでかい。おまけに種類が少ない。
うーん、世の中うまくいきませんね。
今日は、我が家になれてきた「ちび太」、、、いや「貴々」の写真を載せておきます。
ぼくのように、老人化が進むと、腕の筋力も落ちるし、反射神経も鈍る。
色々な意味で楽をしたくなる。
で、車もカメラも買い換えたくなるのですが、どういう訳か、重くでかくなっていく。
車などはいまや5ナンバーの車種は大変まれになってしまった。
ホンダのレジェンドは当初5ナンバーだったんですよ。
知っていました?
千葉や東京は駐車場が大変狭いため、車幅1800mmを超える車は乗り降りに非常に難儀します。
VWゴルフなんて大変魅力的な車なんですが、横幅がちょうど1800mm。
もうちょっとどうにかなりませんかね。
カメラも大して機能が強化される訳でも無いのに、重くなる。
今月末にはオリンパスのμ4/3が発売予定ですが、20%くらい重さを増すと噂されています。
ぼくの所有する2台は、1台は重すぎるし、1台は描写力が弱い。
新しいものに買い換えたいのですが、一体どれが良いか。
その点、やはりソニーはすごい。
小型軽量高機能は他の追随を許さない。
じゃあ、ソニーを買えば良い?
ソニーは、センサーがAPS-Cなんです。
レンズがでかい。おまけに種類が少ない。
うーん、世の中うまくいきませんね。
今日は、我が家になれてきた「ちび太」、、、いや「貴々」の写真を載せておきます。
障害児教育を考える (岩波新書) 茂木 俊彦 ― 2014年08月23日 22時05分24秒
考える本なので、いろいろと考えさせられました。
政府(国家権力)というのはコスト計算をする訳です。
ま、当たり前ですね。
「応益負担」という概念は、障害者に福祉サービスの費用の1割負担を求めるという発想です。
また障害児をなぜ教育するかというと、将来、税金を払ってくれる労働者に育てあげたいからです。
これを資本主義社会の悪い面かというと、実は社会主義社会(そんなものがあればの話ですが・・・)でも同じことなんです。
プロレタリアート独裁ですから、労働至上主義な訳ですね。
それを「青い芝の会」の横塚さんや横田さんは批判したのです。
では、「応益負担」とか「税金払え」とか言わずに、フルの福祉サービスをするとどうなるか?
イギリスを見るとよく分かります。
胎児チェックに走ってしまい、障害児がなるべく生まれない社会にしてしまうんです。
そして、障害児が生まれた時には手厚く支援する。ダブルスタンダードですね。
この文化は日本に馴染みませんから、極端な生命の選別はおこなわず、障害者がぎりぎりで生きていけるくらいの費用の取り立てをするのではないでしょうか?
横並びの文化ですから。本当に「横に並んでいる」かは保留にしておきましょう。
医者の集まりの学会や研究会で、医療経済の観点から医療をどこまでやるかを論じる教授がいたりします。
本人は大所高所から論じているつもりでしょう。
だけど、倫理的な職業であるはずの医者が算盤を弾いてどうするのでしょうか?
教授だろうが研修医だろうが、目の前に患者(障害児)がいたら、できる限りのことをするのが医者というもののはずです。
財務省が金を出せないと考えるならば、知恵を絞って金を出すのがプロの役人の仕事のはずです。
戦闘機を1台つぶすとか。
いろいろと考えましたが、知識が少ないため完全に理解できない部分もありました。
少しずつ学んでいきましょう。
政府(国家権力)というのはコスト計算をする訳です。
ま、当たり前ですね。
「応益負担」という概念は、障害者に福祉サービスの費用の1割負担を求めるという発想です。
また障害児をなぜ教育するかというと、将来、税金を払ってくれる労働者に育てあげたいからです。
これを資本主義社会の悪い面かというと、実は社会主義社会(そんなものがあればの話ですが・・・)でも同じことなんです。
プロレタリアート独裁ですから、労働至上主義な訳ですね。
それを「青い芝の会」の横塚さんや横田さんは批判したのです。
では、「応益負担」とか「税金払え」とか言わずに、フルの福祉サービスをするとどうなるか?
イギリスを見るとよく分かります。
胎児チェックに走ってしまい、障害児がなるべく生まれない社会にしてしまうんです。
そして、障害児が生まれた時には手厚く支援する。ダブルスタンダードですね。
この文化は日本に馴染みませんから、極端な生命の選別はおこなわず、障害者がぎりぎりで生きていけるくらいの費用の取り立てをするのではないでしょうか?
横並びの文化ですから。本当に「横に並んでいる」かは保留にしておきましょう。
医者の集まりの学会や研究会で、医療経済の観点から医療をどこまでやるかを論じる教授がいたりします。
本人は大所高所から論じているつもりでしょう。
だけど、倫理的な職業であるはずの医者が算盤を弾いてどうするのでしょうか?
教授だろうが研修医だろうが、目の前に患者(障害児)がいたら、できる限りのことをするのが医者というもののはずです。
財務省が金を出せないと考えるならば、知恵を絞って金を出すのがプロの役人の仕事のはずです。
戦闘機を1台つぶすとか。
いろいろと考えましたが、知識が少ないため完全に理解できない部分もありました。
少しずつ学んでいきましょう。
花田春兆―いくつになったら歩けるの (人間の記録) ― 2014年08月24日 14時16分57秒
良い作品でした。
とにかく文章が良い。当たり前ですね。高名な俳人なんですから。
CP者として生きていくことの、面倒さ・大変さは書かれてはいますが、それがこの本のテーマではありません。
花田さんから「CP」を差し引いてもこの自伝は面白いと思います。
だけどやはり、「いくつになったら歩けるの」に行き当たってしまうんですよね。
親に言われ、同級生に言われ、そして自分の子どもに言われる。
しかしくり返しますが、「歩けない」ことを恨んでる本ではない。
自分の人生の歩みを、自分の子どもを含めて世界中の人に知って欲しいという作品です。
花田さんは大正14年(1925年)生まれ。
現在、89歳。まだまだお元気です。
先日のNHK Eテレでもその姿を拝見することができました。
今日も俳句を作っているのでしょう。
とにかく文章が良い。当たり前ですね。高名な俳人なんですから。
CP者として生きていくことの、面倒さ・大変さは書かれてはいますが、それがこの本のテーマではありません。
花田さんから「CP」を差し引いてもこの自伝は面白いと思います。
だけどやはり、「いくつになったら歩けるの」に行き当たってしまうんですよね。
親に言われ、同級生に言われ、そして自分の子どもに言われる。
しかしくり返しますが、「歩けない」ことを恨んでる本ではない。
自分の人生の歩みを、自分の子どもを含めて世界中の人に知って欲しいという作品です。
花田さんは大正14年(1925年)生まれ。
現在、89歳。まだまだお元気です。
先日のNHK Eテレでもその姿を拝見することができました。
今日も俳句を作っているのでしょう。
4つのことを頼まれる ― 2014年08月25日 23時03分25秒
今日は朝から4つのことを頼まれました。
こんなどこにでもいる「一介の開業医」に仕事を頼んでくれるのですから、本当に有り難いです。
私のような人間でもお役に立てるなら、できる限りやらせて頂きます。
まずは、週刊日本医事新報からの原稿依頼。
(自著ではなく)書評を書いてくれという依頼です。
書評ならば、このブログで何百と書いていますから、いつでもOKです。
しかしせっかくだから、ブログでまだ書いていない本について書きましょう。
掲載されたらネット上でも読めるはずですから、その時に皆さんにお知らせしますね。
次は、千葉県医師会からの原稿依頼。
県民向けの広報雑誌に「小児がん」の解説を書いて欲しいそうです。
それも「固形がん」が中心でいいと。
はい、分かりました。しっかり書きましょう。
そして10月の宮崎県の講演のための「概要」。
大事なことですね。概要を作ることで、自分が述べたいことが見えてくる。
スライドをどう作ろうかとアイデアが固まってきます。
早速書いて、ついさっきメールで送りました。
最後は、ある講演の依頼です。
これはお引き受けするかどうか、決めかねています。
もちろん引き受けたいし、人様のお役に立ちたいです。
ですが、千葉から飛行機で行く距離だし、前後の日程がかなり詰まっているんです。
家内に相談したところ、いい顔はされなかった。
何度もここで書いていますが、ぼくは大きな病気を抱えています。
「無治療・経過観察」という状態で、発病後11年。
大丈夫という気持ちと、油断したら取り返しがつかないことになるとの気持ちが交錯してしまう。
ぼくが最も思い入れの強い学会からの依頼なので本当に迷います。
11月の初旬には別の学会参加のため兵庫県に行きますが、これはかなり前から決まっていたために、クリニックを休診にします。
やはりこういう風に余裕を作らないと、不安感はぬぐえない。
しかし家内はこうも言う。世の中へ出ていって、人と繋がって、インプットを増やしなさいと。
そうなんですよね。
週末ごとに書斎にこもっていたら、中味の薄い老人になっていってしまいます。
人生も完全に後半戦。
自分の体調をよく見極めて、近日中に決めたいと思います。
それにしても、声をかけて頂いて本当に嬉しく、そして光栄に思います。
こんなどこにでもいる「一介の開業医」に仕事を頼んでくれるのですから、本当に有り難いです。
私のような人間でもお役に立てるなら、できる限りやらせて頂きます。
まずは、週刊日本医事新報からの原稿依頼。
(自著ではなく)書評を書いてくれという依頼です。
書評ならば、このブログで何百と書いていますから、いつでもOKです。
しかしせっかくだから、ブログでまだ書いていない本について書きましょう。
掲載されたらネット上でも読めるはずですから、その時に皆さんにお知らせしますね。
次は、千葉県医師会からの原稿依頼。
県民向けの広報雑誌に「小児がん」の解説を書いて欲しいそうです。
それも「固形がん」が中心でいいと。
はい、分かりました。しっかり書きましょう。
そして10月の宮崎県の講演のための「概要」。
大事なことですね。概要を作ることで、自分が述べたいことが見えてくる。
スライドをどう作ろうかとアイデアが固まってきます。
早速書いて、ついさっきメールで送りました。
最後は、ある講演の依頼です。
これはお引き受けするかどうか、決めかねています。
もちろん引き受けたいし、人様のお役に立ちたいです。
ですが、千葉から飛行機で行く距離だし、前後の日程がかなり詰まっているんです。
家内に相談したところ、いい顔はされなかった。
何度もここで書いていますが、ぼくは大きな病気を抱えています。
「無治療・経過観察」という状態で、発病後11年。
大丈夫という気持ちと、油断したら取り返しがつかないことになるとの気持ちが交錯してしまう。
ぼくが最も思い入れの強い学会からの依頼なので本当に迷います。
11月の初旬には別の学会参加のため兵庫県に行きますが、これはかなり前から決まっていたために、クリニックを休診にします。
やはりこういう風に余裕を作らないと、不安感はぬぐえない。
しかし家内はこうも言う。世の中へ出ていって、人と繋がって、インプットを増やしなさいと。
そうなんですよね。
週末ごとに書斎にこもっていたら、中味の薄い老人になっていってしまいます。
人生も完全に後半戦。
自分の体調をよく見極めて、近日中に決めたいと思います。
それにしても、声をかけて頂いて本当に嬉しく、そして光栄に思います。
移植医療 (岩波新書) ぬでしま次郎, 出河 雅彦 ― 2014年08月26日 22時47分52秒
臓器移植という医療は大変変則的な医療であり、本来、医学が目指すのは「移植」ではなく「再生」であることは論をまちません。
日本は(いわゆる)先進国の中で最も脳死基準が厳しい国なっていますが、それは良いことであり、同時に海外へ臓器を求めて患者が渡ることを考えると悪いことかもしれません。
つまりこのこと自体が、臓器移植という医療が変則的であることを示しているのです。
脳死とは何でしょうか?
みなさんはこの質問に答えられますか?
本来、脳死とは「脳の器質的な死」だった。
つまり脳が壊れて腐って溶けてしまう状態。
ここが原点ですね。
だから脳死は人の死かと聞かれれば、ぼくは死だと思います。
ですが実際には「器質死」ではなく、「機能死」で脳死を判定している。
脳が腐っているかどうかは、調べようがないからです。
「機能」を完全に失うというのは、「ある一点」で観察できるものではありません。
たとえば「心臓が止まる」みたいに。
脳死は徐々に進行して、どこかの時点で「生」に引き返せなくなるんです。
だから、脳死判定は時間をあけて2回おこなう訳です。
連続した死なんです。
従ってぼくは脳死の人から臓器を提供してもらうことは、倫理的に正統だと考えています。
脳死患者が蘇生した、、、みたいな話を耳にしたりしますが、それは脳死の判断が間違っていたとしか考えられません。
脳死判定のうちの一つは「無呼吸テスト」です。
これをやっていない「いわゆる脳死」が実は多いのだと思います。
自発呼吸がほんのわずかでも残っていたら、完全昏睡でもそれは「植物状態」と呼ばれるものです。
しかし、欧米の国々でも脳死体は圧倒的に不足しています。
そこで、安楽死の直後に臓器を取り出すなどという事態が生まれてきます。
こうなると、臓器の確保ありきで、安楽死が手段になりかねません。
日本では同じようなことはまずおこなわれないでしょう。
脳死移植後進国でよかったと思います。
日本は(いわゆる)先進国の中で最も脳死基準が厳しい国なっていますが、それは良いことであり、同時に海外へ臓器を求めて患者が渡ることを考えると悪いことかもしれません。
つまりこのこと自体が、臓器移植という医療が変則的であることを示しているのです。
脳死とは何でしょうか?
みなさんはこの質問に答えられますか?
本来、脳死とは「脳の器質的な死」だった。
つまり脳が壊れて腐って溶けてしまう状態。
ここが原点ですね。
だから脳死は人の死かと聞かれれば、ぼくは死だと思います。
ですが実際には「器質死」ではなく、「機能死」で脳死を判定している。
脳が腐っているかどうかは、調べようがないからです。
「機能」を完全に失うというのは、「ある一点」で観察できるものではありません。
たとえば「心臓が止まる」みたいに。
脳死は徐々に進行して、どこかの時点で「生」に引き返せなくなるんです。
だから、脳死判定は時間をあけて2回おこなう訳です。
連続した死なんです。
従ってぼくは脳死の人から臓器を提供してもらうことは、倫理的に正統だと考えています。
脳死患者が蘇生した、、、みたいな話を耳にしたりしますが、それは脳死の判断が間違っていたとしか考えられません。
脳死判定のうちの一つは「無呼吸テスト」です。
これをやっていない「いわゆる脳死」が実は多いのだと思います。
自発呼吸がほんのわずかでも残っていたら、完全昏睡でもそれは「植物状態」と呼ばれるものです。
しかし、欧米の国々でも脳死体は圧倒的に不足しています。
そこで、安楽死の直後に臓器を取り出すなどという事態が生まれてきます。
こうなると、臓器の確保ありきで、安楽死が手段になりかねません。
日本では同じようなことはまずおこなわれないでしょう。
脳死移植後進国でよかったと思います。
しののめ ― 2014年08月27日 23時38分28秒
初めて買った「しののめ」が終刊号でした。
なんでもっと早く手に入れようと思いつかなかったのだろう。
障害者文学同人誌です。
花田春兆さんはもちろん、大仏空さんや横田弘さんの文章も掲載されています。
なんでもっと早く手に入れようと思いつかなかったのだろう。
障害者文学同人誌です。
花田春兆さんはもちろん、大仏空さんや横田弘さんの文章も掲載されています。
「障害者の経済学」 中島 隆信 ― 2014年08月28日 22時32分51秒
障害というのは、障害者自身の問題ではなく、社会との関係においてその度合いが決まる訳です。
だから障害者問題とは、私たちの社会問題なんです。
視覚障害の人、聴覚障害の人、知的障害の人、肢体不自由の人。
そしてそれが軽度か重度か。
そしてその人は、大人か子どもか。
単独なのか重複しているのか。
組み合わせはいくつでもあります。
そういった人達とどういう社会を作ればいいのか?
彼ら、彼女らは、自分たちの欲求をあまりはっきり言わないことがあります(青い芝の会は、それではいけないと主張した)。
だから、考えるのは、いわゆる健全者の仕事なのだと思います。
障害者のことをチャレンジドと表現したりします。
神から試されている、、、挑戦されている、、、ハンディをそういう風に言っている訳です。
だけど本当の意味で挑戦を受けているのは、誰か?
言うまでもないでしょう。
だから障害者問題とは、私たちの社会問題なんです。
視覚障害の人、聴覚障害の人、知的障害の人、肢体不自由の人。
そしてそれが軽度か重度か。
そしてその人は、大人か子どもか。
単独なのか重複しているのか。
組み合わせはいくつでもあります。
そういった人達とどういう社会を作ればいいのか?
彼ら、彼女らは、自分たちの欲求をあまりはっきり言わないことがあります(青い芝の会は、それではいけないと主張した)。
だから、考えるのは、いわゆる健全者の仕事なのだと思います。
障害者のことをチャレンジドと表現したりします。
神から試されている、、、挑戦されている、、、ハンディをそういう風に言っている訳です。
だけど本当の意味で挑戦を受けているのは、誰か?
言うまでもないでしょう。
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