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移植医療 (岩波新書) ぬでしま次郎, 出河 雅彦2014年08月26日 22時47分52秒

移植医療 (岩波新書)
臓器移植という医療は大変変則的な医療であり、本来、医学が目指すのは「移植」ではなく「再生」であることは論をまちません。

日本は(いわゆる)先進国の中で最も脳死基準が厳しい国なっていますが、それは良いことであり、同時に海外へ臓器を求めて患者が渡ることを考えると悪いことかもしれません。
つまりこのこと自体が、臓器移植という医療が変則的であることを示しているのです。

脳死とは何でしょうか?
みなさんはこの質問に答えられますか?

本来、脳死とは「脳の器質的な死」だった。
つまり脳が壊れて腐って溶けてしまう状態。
ここが原点ですね。
だから脳死は人の死かと聞かれれば、ぼくは死だと思います。

ですが実際には「器質死」ではなく、「機能死」で脳死を判定している。
脳が腐っているかどうかは、調べようがないからです。
「機能」を完全に失うというのは、「ある一点」で観察できるものではありません。
たとえば「心臓が止まる」みたいに。
脳死は徐々に進行して、どこかの時点で「生」に引き返せなくなるんです。
だから、脳死判定は時間をあけて2回おこなう訳です。
連続した死なんです。

従ってぼくは脳死の人から臓器を提供してもらうことは、倫理的に正統だと考えています。
脳死患者が蘇生した、、、みたいな話を耳にしたりしますが、それは脳死の判断が間違っていたとしか考えられません。
脳死判定のうちの一つは「無呼吸テスト」です。
これをやっていない「いわゆる脳死」が実は多いのだと思います。
自発呼吸がほんのわずかでも残っていたら、完全昏睡でもそれは「植物状態」と呼ばれるものです。

しかし、欧米の国々でも脳死体は圧倒的に不足しています。
そこで、安楽死の直後に臓器を取り出すなどという事態が生まれてきます。
こうなると、臓器の確保ありきで、安楽死が手段になりかねません。
日本では同じようなことはまずおこなわれないでしょう。
脳死移植後進国でよかったと思います。

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