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ノンフィクション文学におけるオリジナリティーとは何か?2012年05月15日 21時43分18秒

今月号の「文芸春秋」を読んだところ、大宅壮一ノンフィクション賞の選考コメントが掲載されていました。
受賞した作品が誉められているのは当たり前のことですが、受賞できなかった作品があれ程けなされなければならなかったのか、ちょっと作者が可哀想だと思いました。

最も高い評価を受けたのは「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」です。
この本が大宅賞を受賞したのはまったくもって正当だと思いますし、以前にこのブログでそういう予言をしたこともありました。
ですが同時にノンフィクション文学として、検証作業の限界(時間が経ちすぎている)も、大変傲慢ですが指摘させて頂きました。

ノンフィクション文学におけるオリジナリティーとは何でしょうか?
ノンフィクションは「人」を描くか「事件」を描くかという分類もありますが、「自分の経験(取材を含む)」を書くか、「資料を収集・分析して」書くか、という分類や見方もできると思います。
(もちろん両者は混じり合って本ができる)

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」でも、当然ながら多数の人に取材をして本を仕上げています。
ですが本の1/2以上は資料を読み解いて、それを物語として再構成・解説・敷衍しているのではないでしょうか。
巻末には主要参考文献が並んでいますが、これはサイエンスの世界に生きてきたぼくから見ると「参考」の域を出ていると思います。
(もちろん、それがいけないと言っているのではない)

理系の世界、サイエンスの世界でも論文を書く時に、巻末に参考文献を並べます。
しかし、それは「引用」したりするためではない。
サイエンスでは、オリジナルであることが何より重要です。
まず仮説を立てる。
その思考の過程で役に立った参考文献を明記する。
実験を行い結果を得る。
そして考察をする。
その考察の過程でも、自分の考え方を裏付ける他者の実験論文を並べるのです。

だからノンフィクション文学と科学論文では、参考文献の意味づけがまったく違うように思います。
ただ、科学の世界には「総説・レビュー」という論文があります。
これは、その道の大家の先生が、いろいろな論文を山ほど引用して「解説」してくれる論文です。
総説を書く科学者は、世界のトップサイエンティストだけですが、そういった「総説」と「資料に基づくノンフィクション文学」は近いなと思います。

一方で、「オリジナル・ペーパー」と言われる普通の科学論文は、「自身の経験や取材に基づくノンフィクション」に近い感じがします。

くり返しますが、どちらかが良いとか悪いとか言っているのではありません。

これは蛇足ですが、日本の作家はなぜ日本語で本を書くのでしょう?
純文学を日本語で書くのは当たり前ですが、ノンフィクションには何かを知らしめるという役割があります。
価値の高い内容であれば、それは絶対に国境を越えるはずです。

医学・科学の世界では日本語で書かれた論文は、論文と見なされません。
日本人にしか理解できないからです。
つまりそれだけ普遍性に劣り、価値が低いと判断される訳です。

科学論文は英語が国際的に「公用語」になっていますので、英語で書きます。
ぼくは大学を辞めた時点で、41編の英語論文を作っていました。
別に英語がえらい訳でもなんでもなく、現在のサイエンスの覇権をアメリカが握っているから英語が使用されているだけで、「公用語」がドイツ語だったらぼくはドイツ語で論文を書きます。
それくらいのドイツ語力くらいは、ぼくは持っています。

それはさておき、日本のノンフィクション作家の中から、英語で本を書く人が出てきても良いような気がするのです。
本多勝一さんのルポルタージュで外国語に翻訳された本は多数あるし、立花隆さんの「宇宙からの帰還」や「臨死体験」「精神と物質」などは英語で出版すれば世界的なベストセラーになるような気がします。

世界中の人に読んで欲しいと思っている作家さんはいっぱいいるはずなので、世界に目を向けて書くという発想があっても良いように思います。
世界のトップの作家に伍して本を書くなんて素晴らしいじゃないですか。

文藝春秋を読みながらそんなことを考えました。