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銅版画を楽しむ2012年05月09日 19時57分59秒

眠るヤマネ
小児外科と自転車の大先輩にあたる橋都先生から、銅版画を送って頂きました。
タイトルは「眠るヤマネ」です。
どうですか、この立体感。
ソファも、ヤマネも、ふっくらと盛り上がって、まるで3Dの版画を見ているようです。

橋都先生は多趣味多芸の知識人です。
音楽・美術・自転車・イタリア文化に造詣が深く、こういった小児外科医は他に見たことがありません。
また、先生は、若かりし頃のぼくの研究(小児がんのがん遺伝子)を真っ先に評価してくださり、「医学のあゆみ」という雑誌に論文を書かせて頂く機会をもらいました。

1990年頃というのは、遺伝子レベルのがん研究というのはまだまだ端緒についたばかりで、理解してくれる医学者というのは本当にごく一部でした。
ぼくの研究を真っ先に評価してくれたのは、日本では土田先生、金子先生、橋都先生。
三人とも東大の先生だ。

その橋都先生の趣味の一つが銅版画。
毎年、展覧会を開いていますが、今年見た「眠るヤマネ」は感動的でした。
これをぜひとも家族に見せたい。
そういう思いから、お譲り頂きました。

美術センスに長けた次女は、見るなりガラス面を指で触れ、「ソファもヤマネもフカフカだ」と目をキラキラさせていました。

さて、どこに飾ろうかな。

チョコレートケーキ2012年02月15日 22時13分35秒

チョコレートケーキ
今日は朝から大学病院へ行って、小児がんの卒業生の診療をおこなってきました。

上の写真は21才の女性からもらったチョコレートケーキ。

彼女は1才で小児がんを発症し、抗がん剤治療と、大手術を乗り越えました。
退院したのは2歳半。
その後、順調に経過して、完治したと思っていました。

ところが10歳で再発。
この病気は再発すると、治癒することはほとんどありません。
この子も、命を持っていかれるかと、一時はぼくも覚悟を決めました。
どのように治療するか、悩みに悩みましたが、「命」も「生活の質」も両方、手に入れるという半ば大勝負にうってでましたが、治療は見事に奏功し、今度こそ彼女は「完治」しました。

そして現在はケーキ屋さんの正社員。
嬉しいじゃないですか。
はやく花嫁姿を見たいな。その時はきっと泣くな。

医者という職業がいい仕事かどうか、ぼくには分からない部分もあるのですが、チョコレートケーキを食べて甘美な気分に浸れる夜もあることは間違いありません。

ドグマに生きるな2011年11月19日 22時55分26秒

今日は診療が終わってから街まで出かけて、旧知の先輩や友人と会食しました。
いろいろと話す中で(その会話自体とは別に)、自分の人生について深く考え込んでしまいました。
何を考えたかと言うと、ま、それは書きません。
書けば、読解力の無い人間が、「また大学の悪口を言っている」とか「人の悪口を書いている」とかトンチンカンなことを言い出すに決まっているからです。

ひとつだけキーワードをあげておくと、「ドグマに生きてはならない」という自分に対する戒めです。
これは亡くなったSteve Jobsの言葉ですが、ぼくの目を覚ますような素晴らしい哲学でした。

自分の内なる声に従い生きること、そして、それには「勇気」が必要だともJobsは言っていました。

ドグマに生きると過去に生きることになります。
ぼくの人生は終盤に差しかかっていますが、死ぬ寸前まで未来に生きたい。
そのためにも過去に生きてはならないし、自分の人生にとって必要なものを選び取って行きたいと意を強くしました。

明日は、家内のロードランナーの納車です。
楽しみだ〜!
晴れていれば、短い距離でいいから一緒に少し走りたいです。

Facebookで泣く2011年09月01日 21時34分49秒

facebookは実に不思議な世界で、ふいに忘れていた何かにぶつかったりします。

今日は、七海(なつみ)ちゃんの写真に出会いました。
最後に彼女の笑顔を見てから7年が経っています。
7年ぶりの笑顔。

七海ちゃんのことは、拙著「命のカレンダー」に書きました。
その中でも最も忘れがたい場面をここで再録しましょう。

・・・・・・・・・・・・・・

そして7歳になった冬、七海ちゃんの残り時間は少しずつ少なくなっていました。
七海ちゃんのご両親の最後の選択は、七海ちゃんの最期を自宅で看取ることでした。
私に手伝えることはほとんど何も残っていませんでした。
ご両親は七海ちゃんの部屋をすべてピンク色で装飾し、七海ちゃんの大好きな人魚姫アリエルのグッズで部屋を一杯にしたといいます。
それはまるで七海ちゃん自身がアリエルのようだったのではないでしょうか。
ある日、私は七海ちゃんの受け持ち病棟看護師に、七海ちゃんの自宅での様子を尋ねました。
彼女は時々七海ちゃんの家を訪問して看護の手伝いをしていたのです。
彼女の話しによれば、先日七海ちゃんとしばらく遊んだ後、七海ちゃんが目をつぶってじっとしていたそうです。
お母様が、せっかくだから目を開けてもっと遊ぶように促したところ、七海ちゃんがこう言ったそうです。

「今までの楽しかったことを目にコピーしてるんだ」と。

コピーが終わった後の七海ちゃんの表情はとても毅然としていたそうです。
私はそれを聞いて、7歳の子どもが死を意識しているのだと感じました。
2004年1月7日。
七海ちゃんは天国へ旅立ちました。
私が初めて七海ちゃんに出会ってから、ちょうど4年が経過していました。

・・・・・・・・・・・・

七海ちゃんの写真を見ていたら、涙がたらり。
ぼくもすっかり歳を取りました。

我が千葉大医学部ラグビー部その32011年08月07日 20時22分56秒

ラグビー部について語ると、ま、偉そうな口調になってしまうのですが、ぼく自身の「選手としての業績」はたいしたことはありません。
その理由は、ラグビー生活の6年間で、ぼくは病気と怪我に悩まされたからです。

1年生の頃は、当然のことながら、公式試合には出ていません。
菅平高原の夏合宿の際に、練習試合にちょっと出ただけです。
2年生になって、急激にラグビーが面白くなり、体力・実力も備わりました。
しかしこの時に、大量の血尿・タンパク尿。
幼少の頃に溶連菌感染を経験したことが原因でしょう。
中学の時も、1〜2年間、体育の授業は見学でした。
3年生の途中から体調が良くなりましたが、この時点では公式戦のレギュラーがすでに決まっていましたから、ぼくは試合に出ることはなかった。
4年生で「責任学年」になり、全試合に出場しましたが、シーズンの後半で、脛骨の「疲労骨折」を起こし、十分に力を出せなかった。
ちなみに「疲労骨折」とは「シンスプリント」ともいい、X線で骨折線が見えないのですが、骨の表面がとても痛くなるスポーツ障害です。
ちなみに、大学の整形外科の先生に実習の時に「シンスプリント」の相談をしたら、先生はそういう病名自体を知らなくて、びっくりしたものです。

5年生は絶好調で、夏までは走りまくっていました。
秋になり、公式戦を1週後に控えた最後の練習試合。
相手は慈恵医大。強いんですよ。
ぼくはスタンドオフで、ま、チームを引っ張っていた訳です。
前半を終えて我が千葉大がリード。
これまで一度も勝ったことのない相手です。

気合いを入れて後半に臨んだのですが、相手のフランカーに強烈なタックルをくらい、しゃがんだ姿勢で上から下へ押し潰されました。
ぼくの左足首が「バキ」「バキ」「バキ」と3回音を立てました。
今でも耳に残っています。
靱帯が切れたんですね。

試合場の東京から千葉へ急いで帰り、「スポーツ整形外科」で有名なある開業医の先生を受診しました。
あとから考えるとこれが良くなかった。
先生は湿布を貼って、シーネで固定しておしまい。
え? 先生、まったく歩けません!
そこで、頼み込んで松葉杖を貸してもらいましたが、きちんとギプスで固定しておけば、ちょっとは違った経過になっていたと思います。
ぼくたちは、外傷の時の応急処置がとても手慣れているので、クリニックに到着した時点ではほとんど腫れが無かったため、先生は外傷を軽く評価したのかもしれません。

その後、ちゃんと歩けるようになるまで半年くらいかかり、現在でもぼくの左足首は、一直線に伸ばせない。つまり正座ができない。
不便は感じませんけど。

6年生になっても引退はせず、最後の最後まで、12月までラグビーを続けました。
ですから、ぼくが公式戦に出たのは2シーズンのみです。
6年生の時のポジションはフルバック。
「攻めの切り札」であり、「守りの最後の砦」であります。
このシーズンは相手のアタックをすべてタックルで止めて、トライは一つも許しませんでした。
ぼくはこう見えても、柔道で講道館・初段の黒帯なんです。
だからタックルはけっこう強い。

だけど、6年生の最後の試合で致命的なミスを犯して、ぼくのラグビー生活は終わります。
その話はまた今度。

根津で飲む2011年07月25日 20時55分23秒

ふるかわ庵
23日(土)に、東京は根津の「ふるかわ庵」というところで、お酒を飲みました。

ぼくは一時、西日暮里という所に住んでいました。
根津から駅二つですね。
また高校は白鴎高校で、御徒町というやはり近所です。
でも根津は、西日暮里とも御徒町とも佇まいが異なります。
月並みな言い方をすれば、情緒深い下町といった感じでしょう。

料理も日本酒も大変美味しくて、千葉にもこんなお店があればなと思いました。

ぼくの人生の中にはとってもとっても大事な人が何人かいますが、その日はそのうちの三人に来てもらいました。
話題は、世界各地の政情・文化・民俗・宗教に及びました。
この四人の中で一番教養が無いのは明らかにぼくなので、ぼくは聞く役に。
畏友、親友、恩師の人たちに囲まれて話を聞いているだけで、人生が本当に豊かになります。
至福の時間を過ごしました。

訃報 松浦総三さん2011年07月22日 19時45分28秒

天皇とマスコミ
評論家の松浦総三さんがお亡くなりになりました。
以下は朝日新聞からの引用です。

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松浦 総三さん(まつうら・そうぞう=評論家、本名総蔵)が6日、結腸がんで死去した。96歳だった。葬儀は近親者のみで行った。喪主は長男洋(ひろし)さん。
 改造社の編集者を経て、家永三郎氏らと発行した「東京大空襲・戦災誌」で菊池寛賞。著書に「占領下の言論弾圧」などがある。

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96歳だったんですね。
学生時代、松浦さんの評論をいくつか読みました。
一番印象に残っているのは「天皇とマスコミ」(青木書店)かな。
ま、こういうことを書くと、「アカ」とか「サヨク」とか「バイコクド」とか、コメントが付くんですよね。
だけど、こういう評論を行う作家が本当に少なくなってしまった。
一つの理由は、60年から70年代にかけて、左翼運動が国家権力によって徹底的に潰されてしまって、その世代の人たちが精神的に挫折してしまったということ。
もう一つは、日本という国自体が(見かけだけは)豊かになったので、誰もが美味しい生活をしたいと思い始め、体制に尻尾を振り始めたからでしょう。

え? じゃあ、ぼくはって?
ぼくなんて、めちゃくちゃ「資本主義の走狗」ですよ。
「サヨク」でも何でもありません。

わが千葉大医学部ラグビー部 その22011年07月01日 21時14分21秒

ぼくがラグビー部に入った時に、チームのキャプテンだったのが平井さん。
ポジションはスタンドオフ。
平井さんのキック力は、医学部のレベルを超えていて、自陣ゴール前5メートルからキック1発で、対角線にボールを飛ばし、相手のゴールラインの手前5メートルまで進んだこともありました。
ハイパントを蹴ると、ボールが見えなくなっちゃうという感じでした。

そしてもう一人のスーパースターが、深谷さん。
スクラムハーフでしたが、フォワードのような体格で、ダイビングパスでボールを放ると、ぼくなんかはキャッチできませんでした。
深谷さんは、千葉大医学部に進学して医者になるか、それとも早稲田大学の体育学部に進学してラグビーの日本代表を目指すか、迷ったという人ですから、そのレベルは「超」医学部生でした。

では、この二人がいた頃、千葉大医学部ラグビー部は強かったかというと、そうだとは言い切れません。
なぜならば、この当時のラグビー部はまだ「近代化」されていなかったからです。
残りの13人も、平井さんと深谷さんに依存していた部分があったと思います。

ぼくと、同級生のO君、Y君が4年生になり、平井さんと深谷さんは引退しました。
キャプテンのO君、バックスリーダーのY君は非常に危機感を深めました。
しかし、ピンチはチャンスでもあります。
ぼくたちは、クラブを近代化させることにしました。

まず初めにやったことは「戦術書」の作成です。
ワープロの無い時代でしたから、ぼくが手書きしました。
コピーして、綴じて。
タイトルは「ガイド・フォー・プレーヤーズ」。

つまりこの当時、うちのチームは、どうすれば試合に勝てるか、意志の統一とかがまったく無かったのです。
ラグビーはルールの変遷が激しいのですが、ぼくらの頃のラグビーの原理は「陣取り合戦」にありました。
従って、「ガイド・フォー・プレーヤーズ」では、徹底的にそのことを説きました。

結果として選んだ戦術は、フォワードによるサイド攻撃と、バックスによる激しいタックルです。
言い換えれば、攻めるのはフォワード、守るのはバックス。

当然、バックスの選手から不満が出ましたが、1年間この戦術を通しました。
いえ、それまでは、「戦術を通す」という概念もありませんでした。
原理原則を掲げて、徹底的に陣取り合戦に拘ったのです。
戦術面だけではありません。

一つのポジションに、選手を二人以上配置。
また、逆に、一人の選手に二つ以上のポジションを練習させました。
それまでは、最高学年の先輩は練習に出てこなくても、試合に出場していましたが、こういう習慣もばっさりと断ちました。
(当然、多方面から反発を買いました)

以前のラグビー部には、部員同士の競い合いというものが無かった訳です。
ぼくたちが責任学年になり、チームが近代化された後は、6年間練習しても公式戦に出場できない部員も出てきました。

ま、チームのOBの先生たちは、皆さんが、「我こそがチームを強くした」という自負を持っていると思います。
その気持ちは大変よく分かりますが、関東医歯薬リーグでの戦歴を見れば、ぼくたちの近代化がすべての始まりだったということが、よく分かると思います。

ぼく自身も、クラブの雰囲気を悪くしたという批判を先輩や後輩から多数頂きましたが、今日につながる道筋をつけ、扉を開け放った訳ですから、全然後悔はありません。

いま現在、現役でラグビーをやっている学生たちは、今のスタイルを「当たり前」と認識しているでしょうが、ぼくが1年生の時と、6年生の時では、クラブは完全に様変わりしていたのです。

わが千葉大医学部ラグビー部 その12011年06月28日 20時58分42秒

最近自転車で走るようになって、思いの外、脚力がちゃんとしていることに気付かされました。
それはおそらく医学部の頃にラグビーで鍛えたからでしょう。

現在の千葉大医学部ラグビー部は、実力だけでなく、その歴史と伝統を踏まえた組織力は大変充実しているようです。

http://chiba-mrfc.d2.r-cms.jp/

ぼくにとって学生時代の6年間とは、ラグビー部の6年間であり、あんなに楽しかったことは、もう二度とは経験できないと思います。
最高のクラブでした。

さて、ぼくがラグビー部に入った最大の理由は、当時のラグビー部にはほとんど歴史がなく、OBも数えるほどしかいなかったからです。
ぼくはクラブというものは、学生が自分たちでやるものだと考えていますから、OBが「OB面」して偉そうに指導しに来るクラブには入りたくありませんでした。

また、当時のラグビー部は、酒好きの先輩が揃っており、上級生は下級生に酒を「飲ませる」ということをしませんでした。
何しろ、「一気! 一気! 一気! 一気!」の時代でしたから、ラグビー部は相当変わっていました。
なぜ、下級生に酒を飲ませないかというと、先輩たちが、人に酒をやるのは惜しいと、自分で飲んでしまうからです。
本当に酒豪揃いでしたよ。
ぼくはまったくお酒を飲めなかったので、酒を強要されないラグビー部というのは、入部するかなり強力な動機になりました。(今は、どのクラブでも同じでしょう)

クラブは学生のもの、、、この信念は今でも変わっていません。
従って、クラブには顔を出しません。
後輩が寄付の依頼に電話をかけてきたりしますが、これも全部断っています。
お金が無いなら、無い範囲でクラブをやるべきです。
ぼくらの頃は、車を持っていない学生などいくらでもいました。
今はどうですか?
ラグビーボールだって、使い古しのものばかりでした。
自分たちで出来る環境の中でクラブをやればいいのです。

さて、現在でも試合用ジャージはグレーでしょうか?
このジャージの色を選んだのは、ぼくです。
ただ、ラグビー部のHPを見ると、当時、強かった同志社をイメージしたようだと書いてありますが、そうではありません。

ぼくが単にシルバーというか、グレーというか、そういう色が好きだったからです。
そして襟は、エンジ色を考えていましたが、ショップに行ったら、紺色しかなかったので、紺に決めたのです。

ぼくの先輩には、大変身体能力の高いスーパースターのようなプレーヤーが何人もいますが、クラブの総合力が強くなったのは、ぼくと同級生の仲間3人が、チームの基礎を作ったからだと自負しています。
つまり、千葉大医学部ラグビー部の近代化の歴史をスタートさせたのは、自分たちだという誇りがあります。
今度、時間があったら、じっくりとそのあたりを書きましょう。

馬刺しを食べた2011年05月28日 22時22分04秒

馬刺し
蘇我の「銀寿司」で馬刺しを食べました。
メンバーは、同じ釜の飯を食った小児外科の先輩と同級生。
今はみんな開業しています。

もちろん、馬刺し以外にも沢山食べましたが、美味しいのって何のって。

2週間、自転車を漕いだのがチャラになりそうです。
大満足です。