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猪木、死す2022年10月02日 19時04分36秒

猪木、死す
猪木を初めて見たのは、小学生の頃です。
馬場と猪木のいわゆる BI 砲ですね。子どもだったので、夢中になって見ました。
しかしぼくの父がプロレスが大嫌いで、父のいるときはテレビ中継を観ることができませんでした。
父は学歴のない人間で、小学生の頃から働いてたようです。決してインテリではないのですが、「まがい物」を見る目はちゃんとあったようです。

興味はあってもプロレスを観ることはできず、ある日、本屋で雑誌『ゴング』を立ち読みしていたら、猪木が日本プロレスを追放されたことを知りました。
ここから10年弱プロレスから遠ざかります。

高校生のときに、電車の中で、東京スポーツ(プロレス新聞ですね)を読んでいるおじさんがいました。
なんでもタイガー・ジェット・シンという悪役レスラーが坂口征二の腕を折ったとか、なんとか。ストロング小林の腕だったかな?
ぼくは、まじか! と思ってテレビを観るようになりました。
そう当時の「過激なプロレス」ですね。
いや、興奮しましたね。こんなに進化しているのかと驚きました。

この頃のプロレスは、「決め事」とそこをはみ出るギリギリの闘いが、ファンを引き付けていました。もちろんショーなのですが、一級品のショーでした。
また同時に猪木は格闘技に強い関心がありました。
1976年にモハメッド・アリと闘ったことで、猪木の名前は世界中に轟きました。特にイスラム圏では大人気だったようです。

ぼくが大学に入ったころ、猪木プロレスは頂点だったと思います。テレビ中継の視聴率は20%を超えていました。
IWGP 構想というのがありました。要は誰が一番強いのか、それを決めようという大会です。
具体的には、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ローランド・ボック、そして猪木。この4人のうち最強は誰かを示そうという企画でした。結局企画倒れに終わるのですが、最強伝説の夢がそこにはありました。

大学でぼくは、友人とプロレス雑誌(ガリ版印刷を綴じたもの)を作りました。雑誌名は『ボストン倶楽部』といいます。
なかなか洒落ているでしょ?
それくらいプロレスが好きでしたね。

猪木が撒いた種は、日本に総合格闘技という果実に実りました。日本人って本当に闘いが好きなんだと思います。
猪木は生涯に何度かシュートマッチ(真剣勝負)をやっています。
モハメッド・アリ、パク・ソンナン、アクラム・ペールワン。これらは命懸けの闘いでした。総合格闘技と違って「タップ」がありませんから、最悪、目を潰されたり、腕を折られたりします。
そういう意味で、猪木は命を懸けた闘いをした人とも言えます。

政治家になってからはスキャンダルもありましたが、イラクから日本人人質を解放して日本に連れて返ってきたのは、実にすごかったとしか言いようがありません。
常識から離れた破格の人だったと思います。

晩年は本当に痛々しかった。ゆっくり休んでくださいね。
ぼくの人生の中で最も忘れられない一人です。
ありがとうございました。
1、2、3、ダー!!