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デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場(河野 啓)2021年02月06日 12時58分38秒

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場
開高健NF賞を受賞し、現在大ベストセラー中の作品です。
作者は、文章も大変うまいし、物語の転がし方もうまい。一級の書き手です。
しかし実は本職は映像作家のようです。
この本はどう評価していいか分かりません。
面白い本ですが、主人公の栗城さんに、あまりにも人としての魅力がなさすぎるからです。
筆者の視線も基本的には冷たいもの、突き放したものではないでしょうか?
そうすると読む方は、感情移入できないし、なぜ、筆者が「この人」を描くのかという疑問が湧きます。
そういう意味で評価が難しいですね。

そして筆者は本の前半では映像作家として栗城さんを取材対象にしていました。共に番組を作った当事者な訳です。
ところがある時点で決別し、栗城さんと離れます。
この距離感の分かりづらさは、そのまま本の完成度につながってしまったような印象を受けます。

タイトルに関して一つ言っておくと、サブタイトルがまさに本の言いたいことだと思うのですが、「デスゾーン」というタイトルはちょっと違うなと感じました。

さて、筆者の河野さんは小学館NF賞も受賞しています。
今回も受賞して素晴らしいと思うのですが、なぜ賞に応募したのでしょうか?
もし、小学館NF賞を受賞していても、作品発表の場がなくて開高賞に応募したのであれば、この業界はきついなと思います。
ノンフィクションを書ける場を出版社は作っていって欲しいと思います。

新版-「生きるに値しない命」とは誰のことか-ナチス安楽死思想の原典からの考察 /森下 直貴 (著), 佐野 誠 (編集)2021年02月07日 16時08分41秒

新版-「生きるに値しない命」とは誰のことか-ナチス安楽死思想の原典からの考察
助かる見込みのない病人を、本人の希望に従って、苦痛の少ない方法で死なせることを安楽死と言います。
安楽死は世界の中のいくつかの国、アメリカと豪州のいくつかの州で認められています。
こうした考え方は、1970年代の「プライバシー権」の確立から発展してきたと思われます。
「プライバシー権」とは、自分のことを自分で決める権利、そして他人に干渉されない権利のことです。
しかしながら、実は安楽死の概念の萌芽は19世紀末のドイツにありました。
この時代の安楽死には優生思想の影が色濃く反映されており、1920年には『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』という本が出版されます。ちょうどヒトラーのナチスが登場した年です。

安楽死の議論をすると必ず優生思想の話になり、「本人の同意が得られない」ケースや、「本人の同意に反する」ケースで安楽死
が導かれる危険が指摘されます。
本人が同意していないわけですから、これは「死ぬ」ことに周囲が同意している=生きるに値しないと判断していることになります。
こうした考えは杞憂であるという反論も根強くありますが、安楽死の原点に優生思想があったという歴史的事実を私たちは忘れてはいけません。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人も安楽死という言葉を使っていました。
人間の能力に価値を付けて、それに応じた人の選別を行えばそれは差別になります。
高齢者はできないことが徐々に増えていき、緩やかに障害者になっていく存在ということもできるかもしれません。
これは誰しもが通る道です。しかし、単純に能力の劣る存在と決め付けていいのでしょうか?

確かに、小児医療をやっていると、「いま、目の前の赤ちゃんの命を救えば90年の人生を用意してあげられる」と考える瞬間があります。
若い人には未来がある。今日が苦しくても明日はもっといいかもしれないと希望を持って生きることが可能です。
高齢者は明日に希望を見出し難いでしょう。自分の過去を場合によっては重石のように感じることもあるかもしれません。
だからと言って、その人が生きた80年とか90年の道のりが価値ないものと判断することはできません。
いえ、むしろその時間は人生の財産です。
赤ちゃんの命が重いのと同様に、長い年月を生きた人の最期の日々もまた重く価値あるもので、医療者はそれを尊重しなければなりません。
その最期の瞬間が薬殺のような形で安楽死の名の下に幕を閉じたら、あまりにも切なく虚しいのではないでしょうか。
安楽死とは「良き死」という意味ですが、良く死ぬとは、よく生きることです。死ぬことではなく、生きることにしっかりと重点を置いてもいいのではないかと考えます。
体の自由が効かなくなっても、認知能力が衰えても、最期まで良く生きることのできる社会、それが超高齢化を迎えた日本のこれから目指す道ではないでしょうか。

救急・集中治療領域における緩和ケア・氏家良人 (監修), 木澤義之 (編集)2021年02月10日 22時46分57秒

救急・集中治療領域における緩和ケア
緩和ケアと一番縁遠いと思われがちな救急・ICUにおけるその意義を論じた医学書です。
大変面白く読めました。
個人的に最も興味があったのは、治療の差し控えです。
救急の現場の最大の特徴は「時間がない」ことです。患者本人の意思の確認をできなかったり、家族からそういった話を詳細に聞き取ることができません。
時間がなく、予後の見通し(可逆性)が判断できない時、医師は非常に悩むわけです。
そのときの一つの回答が、time-limited trial です。
まず挿管してみて、反応をみる。治療が奏功しなければ、治療を中止(withdraw)するのです。
治療の中止(を含めたすべての治療方針の決定)には、何よりも患者本人の意思と、患者の最善の利益が大事です。
国(厚労省)もこのことを強く打ち出しており、治療の中止や差し控え(withhold)は、適正な手順を踏めば、刑事訴追されることはほぼ100%ありません。
こういった終末期医療のことをいわゆる尊厳死と言いますので、日本では事実上、尊厳死は非合法ではなくなっています。
詳しくは書きませんが、ぼく自身も治療の中止や差し控えを行ったことが何度もあります。忘れることができない経験です。

さて、この本の中で違和感を感じたのは、「無益性」という言葉です。臨床倫理のキーの中に医学的適応の判断があります。
この判断を正しく行うために、無益性を考える必要があるとされています。
無益性とは次の4つです。
1 生理的無益さ・・・1時間心肺蘇生を行なっているが回復しない
2 死が切迫している無益さ・・・がんの末期で死が迫っているのに手術をする
3 最終的に無益にある・・・本人が望んでいなかった「植物状態」のようになってしまう
4 QOL の無益・・・身体機能が回復せず「生きていてもしょうがない」と感じる状態になる
1と2はぼくも納得しますが、3と4はどうなんでしょうか?
これは患者の年齢によってかなり違うと思います。
子どもの難病は多くの場合、先天性かそれに近いものですから、発病前の状態に戻れないという無益さがない、あるいは薄いと言えます。
一方で成人の場合、社会の一員として生活があり家庭があり人生がありますから、治療の結果、病前の状態を取り戻せないのは決定的につらいわけです。
さらに高齢者の場合、「もうすでに十分生きた」という達成感・満足感がありますから、なおのことそういった思いは強いでしょう。

ここを突き詰めると難しい話になっていきます。
子どもの最善の利益の代弁者は親ですが、親によっては子どもの病気や障害を受容しないからです。
こうしたケースでは誰が子どもの人権を守ってあげればいいのでしょうか?
ぼくとしては、こういうことを今後も考えていきたいと思います。

日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る(播田 安弘)2021年02月13日 22時24分39秒

日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る
現在、大ベストセラー中の講談社ブルーバックスです。
タイトルは「日本史サイエンス」ですが、そこまで大きな内容ではなく、
1 蒙古襲来
2 秀吉の中国大返し
3 戦艦大和
の3つについて書いています。一見まったく関連のないテーマですが、筆者は船のエンジニアであり、この3つのテーマを船の観点から論じています。
ブルーバックスとしては異色の本で、文系と理系のハイブリット的な作品かと思って読みました。著者もエンジニアだし。
しかし内容はけっこう文系の味が濃く、歴史の謎を解くというプロセスに数学的な思考が混じっているという感じでした。
ぼくは常々、兵站に興味があり、なぜNHKの大河ドラマは兵站について描かないのだろうかとずっと疑問に思っていました。
特に秀吉の中国大返し。なぜこれができたのか、歴史家にとってそれはすでに答えがある常識なのか、謎のままなのか長年興味を持っていました。
やはり、大返しには謎があるのですね。納得です。

筆者はライターではないようですが、文章もうまく着想も見事です。
オタクが読むと、(特に大和に関して)ケチを付けられてしまうかもしれませんが、こういう本を出すというのは、編集者と筆者の総合的な大きなエネルギーが必要なんですよね。
本はある意味で企画が一番重要なんです。
そういう意味で、この本は見事に勝ちを収めた作品です。
拍手です。

正解を目指さない!? 意思決定⇔支援: 人生最終段階の話し合い(阿部 泰之)2021年02月14日 19時50分11秒

正解を目指さない!? 意思決定⇔支援: 人生最終段階の話し合い
人生の最終段階というのは、個人にとっても最も重いステージです。また医療者にとっても重い課題です。
これに対してどう対応していくか。
極めて重要なテーマです。
多死超高齢化社会に突入して、人生の最終段階をどう生きたいか、人々の関心は高まっているように見えます。
だからなおのこと重要なこととも言えるし、別にそういう社会でなくても、人生の最終段階は普遍的に重要と言えるでしょう。

国(厚労省)の考えは、人生の最後をどう締め括るのか、医療者と患者が丁寧に話し合うことを強く推奨していますので、国民にも医療者にもそうした要請に応える義務があるように思えます。
ぼく自身も大学病院にいた時には、子どもの最終段階で保護者と時間をかけて会話を繰り返してきました。
そのプロセスは拙著『小児がん外科医』に詳述してあります。
話し合いというのは、単に呼吸器をつける/つけないとか、蘇生を試みる/試みないという話ではありません。
メニューがあってAかBを選ぶような単純なものではないのです。

保護者は「子どもの最善の利益の代弁者」とされていますが、愛情が強すぎて目が曇ることもあります。
たとえば、標準治療をやめて民間療法に頼るとか。
親の思いは、子どもの病状によって揺らぐものです。その揺らぎにしっかりと付き合い、会話をいくらでも重ねていって、「子どもの最善の利益」を親とともに見つけていくのが医療者の使命です。

子を持つ親でも、患者である大人本人でも、意思を決定するのは大変難しいことです。
それを支援していくために、医療者には大変な努力が必要となります。
そのプロセスには倫理観や医の使命感などが試されることもあるでしょう。
よく、倫理に正解はないと言います。また正解は一つではないという言い方もされます。
だけど、「間違い」はあるような気がします。
特にこれからの若い医療者にはコミュニケーションの力を磨いて欲しいと強く期待します。
プロセスを大事にした医療をしてください。