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私たちはふつうに老いることができない:高齢化する障害者家族(児玉 真美)2020年05月25日 11時08分44秒

私たちはふつうに老いることができない:高齢化する障害者家族
それほど厚い本ではないのですが、テーマは大変重く、ぎっしりと内容が詰まっています。
重度知的障害者・重度心身(重複)障害者を介護する母(あえて、親ではなく母と書く)が、どれほど塗炭の苦しみを経験しなければならないか、多数の母親からの聞き取りで本書は伝えています。
問題点は多岐にわたり、ここで一言ではまとめられません。

僕自身も同じ問題意識を持ち、親が子どもの命を絶とうとする心理や、老障介護の困難さについては、これまでの著作で書いてきたつもりです。
ただ、この本の中の論点で僕が強調したいのは、行きすぎた行政のノーマライゼーションという思想・施策です。

1970年代には福祉が弱すぎて、障害児を殺める母親が多くいました。それに対して世間は同情しました。母親が可哀想だと。
その状況に異を唱えたのが、青い芝の会でした。
脳性マヒの彼らは、「自分たちは殺されてもしかたがない存在なのか!? 母よ、殺すな!」と声を上げて、日本の障害者運動は始まったと言えます。
その後、大型の入所施設が多数できますが、時代はノーマライゼーションを目指すように変化していきます。
障害者は地域へ、そして家庭へ。
共生社会を目指し、本人の個性を尊重し。

その結果、グループホームがたくさん作られますが、そこに入れるのは、軽度から中等度の知的障害者だけです。
重い障害者は家庭に取り残され、母親は「子育て」の延長としての「介護」に人生を捧げることになります。地域に資源など無いのです。
しかしその母親も年老いて行きます。
自分の親を介護し、自分の夫を介護します。
長期ビジョンは描くことができず、その日を懸命に生きる母親たち。

これだけの荷重を背負った母親が、社会の福祉制度を信頼できるでしょうか?
そうなると、自分が亡くなったあとに、自分の子どもがちゃんと人格を尊重されて施設で大事にされるとは気楽に考えられないかもしれません。
「親亡き後の障害者の人生」と簡単に言いますが、そこに込められた母親たちの数十年に及ぶ濃く、複雑で、言いよう無い想いの深さに対して、私たちは容易には、分かった顔で近寄ることはできないかもしれません。
ただ、本書を通じて、ケアに人生を捧げた母親たちの話を傾聴し、祈りを込めて幸福の芽を探し出してくれることを願うばかりでしょう。
良書です。みなさんも読んで、そして考えてみてください。

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