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殺す親 殺させられる親――重い障害のある人の親の立場で考える尊厳死・意思決定・地域移行(児玉真美)2019年08月23日 22時00分46秒

殺す親 殺させられる親
児玉さんが5年をかけて書いた大著です。
大変ショッキングなタイトルですが、児玉さんが言いたいことは、まさにこれに尽きます。
重度障害児(者)を持つ親は、わが子を「殺させられる」という指摘です。
青い芝の会の横塚晃一さんは「母よ!殺すな」と言いましたが、児玉さんは、「殺させられる親」の苦しみを訴えているのです。
サブタイトルに、「尊厳死・意思決定・地域移行」とあります。一見、バラバラのことですが、実はこれらはすべてつながっています。
生きるに値しない命に対して「尊厳死」という穴が口を開けて待っている時代に入ろうとしていて、自らの「意思決定」という名のもとに個人に責任を負わされ、「地域移行」という政策に従い入所施設に障害児(者)を入れることを否定・非難される状況になっています。

ぼく自身はノーマライゼイションもインクルージョンも大事だと思っていますが、理念と実際が解離していては意味がないと思います。
ちょっと別の例をあげれば、ぼくは特別支援学校の存在を悪だとは全然思っていません。
おむつの取れない知的障害のあるお子さんを、通常級に入れて一体どうやってその子を伸ばしていくのでしょうか?
同じ文脈で、グループホームも入所施設も同じくらいに必要だと思います。
ぼくは「共生」という言葉が好きでよく使います。
本書では、共生という言葉が地域移行に強く結び付いていて、施設での生活に対する否定の言葉になっていると指摘しています。

私見を述べれば、地域にいても、施設にいても、障害児(者)が人と一緒に暮らしていれば、それを共生と言っていいと考えます。
以前、宮崎県に講演に行きました。そこでは重度障害の人たちが、自分たちで自立生活センターを運営し、24時間全介助を受けながら、ケアをする人と一緒に生きていました。
立派な姿でした。
しかし自立とか共生というのは、こういう姿だけではありません。
「発達障害に生まれて」で書いた勇太君のお母さまは、建物ではなく、人との出会いを待ち望んでいました。
どれだけ立派な職場でも、あるいはグループホームでも、そこにいる人が勇太君にとって素晴らしい人でなければ、勇太君の人生は楽しいと言えない訳です。
だから、入所施設でも人との出会いが重要で、本書の海さんが生き生きとした毎日を過ごしているなら、それは素晴らしい共生であって、地域移行を強いられる筋合いはまったくないと思います。
年老いていく両親が、「親亡き後」を考える場合、やはり子どもを支援・ケアしてくれる人が重要になります。
親の心配は尽きないことは想像に難くありませんが、ぜひ、「この人なら」と思える人と出会って欲しいと祈ります。

欧米での子殺しは、言わば「慈悲」によるものだそうです。それに対して日本では、「親にすべてを負わせる社会の無関心」と親の「自分の非力に対する絶望」が子殺しの原因だと児玉さんは指摘しています。
こういう言葉を私たちは真摯に受け止めなければいけません。

決して平易な本ではありませんが、大事なことがたくさん書かれています。障害児(者)をケアする者が、どれだけの重圧を受けているか、大変よく理解できます。
みなさんも、ぜひ、読んでみてください。