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相模原障害者殺傷事件はなぜ起きたか?2017年07月25日 21時55分45秒

明日26日で、相模原事件からまる1年が経ちます。
この事件はなぜ起きたのでしょうか?
犯人の男は多くを語っていないため、私たちはまだまだ真相に迫ることができません。
しかしいくつかのことは推測できます。

もし、何かの因子が欠けていたらこの事件は起こらなかったと仮定してみましょう。その因子とは何でしょうか?

1 犯人が障害者施設で働いていなかったらこの事件は起きていないのではないでしょうか?
犯人は障害者に対してまったく無知ではなかった。そこに問題があった。
以前の僕の考え方は、「無知が偏見になり、偏見が人を殺す」というものでした。
しかしこれは正しくないようです。
こんな事件が起きるならば、犯人にはずっと無知でいて欲しかったと思います。中途半端に障害者の生活を知り、知ることで差別感情が生まれたと言えます。
そこに足りなかったのはなんでしょう。倫理でしょうか? 理解でしょうか?
障害者をケアすることによって、自分自身の人間としての根が深くなると言う自己肯定感が無かったのではないでしょうか?

2 強い者が勝ち、弱い者が滅びるという政治風潮が無ければこの犯行は無かったのではないでしょうか?
今日のNHKの報道によれば、犯人はトランプ大統領の選挙戦での演説やイスラム国に影響を受けたと言っているようです。
トランプとイスラム国の思想をいっしょくたにするのは乱暴過ぎますが、両者に共通するのは弱者への非寛容、あるいは、自分ファーストの思想ではないでしょうか?
また日本の政治家たちが、高齢化社会の社会保障の問題になると高齢者の人権を切り捨てるような発言をすることも、この事件の動機とどこかで地続きになっていると見ていいでしょう。

3 犯人が教職に就けていたらこの事件は無かったかもしれません。
犯人は自分を肯定できなかった。社会の中で「居場所」を確保できなかった。友人も多くなかったのではないか?
つまり社会と共生していなかった。共生とは自立の第一歩ですから、この犯人は成人として自分の足で立っていなかった。

人間が限界まで孤独に追い詰められると、二つの道を進みます。
一つは、自分の内側にどこまでも引きこもり、社会との接点を断ち切ろうとします。この究極の姿が自死です。
そしてもう一つは、まるで反対の方向に進みます。社会とか国家に強く関わって、あるいは押しかけて英雄になろうとする。
この犯人が衆議院議長に宛てた手紙を読めば、この男は救世主になろうとしていたことがわかります。

人は一人では生きられないし、また、生きてはいけない。
それは障害者も健常者もまったく同じです。
人が他の動物と最も違う点は何でしょうか?
それは、人間は自分の力で生きていくためには何年、何十年もかかるということです。
動物が生まれてすぐに立ち上がり、エサを摂るのとはまるで違っています。
そこに人間の最大の特徴がある。つまり人間は一人では生きられない生き物であり、生まれた時から社会的な存在だということです。そして生きていくということは、人と人とのつながりを次々に増やしていくことと同義ではないでしょうか?

ところがこの犯人には「居場所」が無かった。つながりに欠け、社会に混じり合っていなかった。孤独を深めた。障害者ともつがりを結ぶことができなかった。
そして、いっそのこと英雄になることを夢見て、大量殺戮によって国家に恩を売ろうとしたのではないでしょうか?
日本の歴史上、この男は最も凶悪な押し売りだったのだと思います。