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季刊福祉労働153号 特集:相模原・障害者施設殺傷事件--何が問われているのか2017年01月12日 20時53分14秒

季刊福祉労働153号 特集:相模原・障害者施設殺傷事件
相模原事件について、まだまだわからないことがたくさんあるのですが、少しだけ理解が進んだことがあります。
以前、ぼくは「無知は罪である」「無知が人を殺す」という意見を持っていました。
講演などでもそのように話していました。
しかし、この犯人は、重度障害者という存在は知っていました。
知ることによって偏見と憎悪を募らせたとも言えます。
逆に言うと、この男が障害者施設で働かなかったら、この事件は起きていなかったはずです。

識者たちは、警察と施設の連携が悪かったとか、施設の防犯体制が弱かったとか、措置入院とその後のフォローが悪かったなどと指摘します。
しかし何かの「if」によってこの事件を防ぐことができたとすれば、犯人が施設に勤務しなかったらという仮定がぼくには思い浮かぶのです。

つまり障害者の姿を「知る」ということは障害者の側に立つには不十分であり、それどころか、偏見さえ生じかねないということです。
医者の中には障害児に対して強い偏見を持つ人がいます。それは何故でしょう?
中途半端に、たくさんの障害児を見るからではないでしょうか?

だから「知る」ということには両義性があって、中途半端に知るくらいなら、無関心の方がましかもしれない。
知った以上は一歩踏み込んで「理解」しないといけない。
相模原事件の容疑者は、「理解」しないで、障害者を見ることで誤った道に進んでしまったのではないでしょうか?

「知る」先にある「理解」を達成するにはどうしたらいいのか。
それは教育しかないと思います。
保守系(体制側)政治家が、高齢者や障害者に対して差別的な発言をすると、メディアはいっときだけ取り上げますが、結局は不問に付されてしまいます。
教育者がそれをしっかりと「間違っている」と子どもたちに教えていくしか、この事件を乗り越えることはできないのではないでしょうか?

しかしながら、容疑者がどれだけ差別感情・優生思想を膨らませようと、人間を19人も殺害するのには、何か一線を越えるようなバリアがあったはずです。
なぜ彼はそれを超えたのか?
そこはまだ未解明だと思います。