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中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ: フェミニスト倫理の視点から (塚原 久美)2016年08月22日 22時42分57秒

中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ
日本には「堕胎罪」という刑法が存在すると同時に、母体保護法という法律も存在します。
前者によって人工妊娠中絶は罪になります。
しかし、例外規定として母体保護法があり、経済的理由・身体的理由、あるいは性犯罪の結果としての妊娠に関しては中絶が許されます。
経済的理由は、たとえ年収が何千万円あっても、生活が苦しいと言えば認められてしまいますので、事実上、堕胎罪は空文化しており、中絶は自由ということです(ただし22週未満)。

空文化しているならば、この堕胎罪という法律を無くしてしまえばいいわけです。
日本の女性解放活動家たちもそれを目指した時期がありました。
しかしそれは今に至るまで実現していません。

堕胎罪と母体保護法のダブルスタンダードによって、女性たちは苦しんでいます。
産めば産んだで責任をもって育てろと言われ、中絶するのは道徳的にけしからんと非難されるからです。

では、なぜ堕胎罪を撤廃できなかったのか?
もちろん、政権権力側は基本的に中絶に賛成していないという基本構造があります。
しかし、それ以上に大事なのは「民意」です。
日本人の大多数は、やはり中絶に対してネガティブな思いをもっているからでしょう。

その理由は何か?
一つには1960年代の「胎児の可視化」があります。メディアが胎児の写真を大衆に提示し、「胎児は生きている」というメッセージを放ったのです。
もう一つは1970年代の「水子供養」です。
ベネディクトは、日本の文化は「恥の文化」と言いましたが、あんがいそれはあたっていません。
日本人にも「罪の文化」があり、「祟りと鎮め」の風習があります。
水子供養は経済的論理から隆盛になったという指摘もありますが、習慣としてはすでに江戸時代からありました。
中絶胎児を悼む風習は世界で日本だけです。
70年代の水子供養ブームは日本人の琴線に触れたのでしょう。

さらに付け加えると、胎児の生命を尊重する母性の優しさが日本人は強いのだと思います。
従って堕胎罪を撤廃することを声高に主張することがはばかられ、日本では中絶に関する法律が二重構造になっているのでしょう。

ぼくは、女性の権利運動に関しては後押ししたい立場です。
しかしそれは、男女同権といったリベラル・フェミニズムに対してです。
つまり、性差ミニマリズムですね。
一方のラディカル・フェミニズムは性差マキシマリズムの立場をとっていて、「異性間の性行為をすべてレイプとみなす」という発言をする人もいます。
ぼくはこういう過激な考え方にはくみしません。

中絶の最大の問題点はその可否ではなく、望まれない生命が誕生してしまうという過程にあるというのがぼくの考え方です。
今日の日本で母体保護法を廃止するというのはあり得ないわけですから、中絶反対とはぼくは言いません。
しかし、子の両親には反省責任はあると思います。