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私たちの中に潜む差別思想2016年07月27日 19時29分58秒

相模原で知的障害者を19人も刺し殺すという大変いたましい事件が起きました。
殺された人数の多さも衝撃的ですが、事件の本質は何と言っても犯人の動機にあります。
「障害者は死んでくれた方がいい」
このような歪んだ考え方が19人もの大量殺人につながったと思います。

さて、この事件を受けて私たちは、私たちの胸のうちに何を問うているでしょうか?
この事件をどう思うかと質問すれば、100%の人が「許せない」「常軌を逸している」と怒りを表明するでしょう。
しかし、「許せない」という心の奥底には、「殺すことはあってはならないが、重度の知的障害者は生きていてもどうなの?」という疑問の欠片が刺さっているのではないでしょうか?

かつて石原慎太郎・元東京都知事は、都立の重度障害者の施設を見学して「ああいう人ってのは人格あるのかね」と発言しています。
麻生財務大臣はつい最近、「90歳になって老後が心配とか、わけの分かんないこと言っている人がこないだテレビに出てた。オイいつまで生きてるつもりだよ」と言っていました。
石原慎太郎の息子は、増大する社会保障費の対策を問われ、「尊厳死協会に入ろうと思っているんです」と答えました。
麻生財務大臣と同じ思考です。

障害者問題とは高齢化問題の水先案内であると言われていますが、日本のトップリーダーの人たちが、重度障害者や超高齢の人たちは生きる価値がないと思っているわけです。
この人たちが、障害者や老人を殺さないのは、それが犯罪に相当するから自制しているだけであり、政策的に障害者・老人をネグレクトできるならばそうしようと思っているはずです。
つまり、今回の相模原事件と文脈においては同一線上にある。
もう少し言うと、こういう心情や論理は、私たち日本人の心の見えない場所に澱のように沈んでいるのではないでしょうか?

昨年、茨城県の教育委員が「障害のある子の出生を防げるものなら防いだ方がいい」と発言し、激しい非難を浴びました。
では、染色体の出生前診断はなぜ許させるのか?
「新型出生前診断」は3年が経過し、検査を受ける人は徐々に増えています。ぼくは検査のすべてを否定するわけではありませんが、この検査によって、染色体異常児に対する世間の偏見は増したと言わざるを得ないと思います。
私たちの多くが、こういう検査は果たして倫理的なのだろうかと疑問を持ちつつ、いざ自分の問題になると、障害児を授かりたくないと考え、生命の萌芽を断ち切ってしまうのでしょう。

今回の犯人はおそらく人間的に、弱い人・心の貧しい人・硬直した人だったのではないでしょうか?
そういう人間が障害者施設などで勤務すると、普段から心の中に燻っている差別感情が膨れ上がるのではないでしょうか?
重度障害者施設で働くということは、イージーなことではありません。
しなやかで強い心を持った人にしかできない仕事のはずです。
不幸なことに、最も適性の無い人間がその職についてしまったのでしょう。
(誤解のないようにはっきり言っておきますが、だからこの犯人に同情の余地がある・・・などということでは全くありません)

今回の事件でぼくが最も心配するのは、日本中の小学校低学年生や幼稚園児などの、幼い子どもたちです。
この子たちは、事件の意味を深く理解していないと思います。
幼い感情の中に、「生きる価値の無い障害者が殺された」というフレーズだけが残ると、新しい差別の芽が生まれてしまうのではないかと危惧します。
マスコミは、ぜひ、客観報道などと言わないで、「生きる価値の無い命などは無い」と強くメッセージを発信してください。
各ご家庭で、親は幼いお子さんに、あらゆる命が唯一無二であることを教育してください。
そして私たちは自分の胸に手を置いて、自分は何かに対する差別者ではないかと問いかけてください。
それがこの事件と同時代に生きた私たちの責任です。

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