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「18トリソミーの会」への寄稿(3)2015年09月06日 22時01分48秒

3. 不幸な子どもが生まれない運動

1972年に兵庫県で始まった「不幸な子どもが生まれない運動」はいくつかの自治体に広がりを見せた。「障害児・染色体異常児」=「不幸な赤ちゃん」=「生まれない方がいい」という図式だった。この運動も、「青い芝の会」の激しい抗議によって終焉に向かった。だが、現在でも一部の医師に、障害児は生まれない方がいい、治療はしない方がいいと公言する者がいる。40年以上も前に否定されたこうした考えた方が、なぜ未だに生き残っているのだろうか? それはおそらく人間の心の中には優性思想があるからであろう。

1883年のイギリスでフランシス・ゴルトンは優生学を提唱した。優性思想はアメリカに渡り、知的障害者や精神障害者の「施設収容」や「断種」という形になった。さらにナチス・ドイツでは優性思想が過激化し、「安楽死」や「絶滅」という方向に変容した。日本では表向きには優性思想は否定されている。しかし欧米では、障害児が生まれないことをソフトな優性思想として行政が公的に認めている。

私はこうした思想が日本で広まることを危惧する。優性思想がなぜいけないのか? この問いに対する最も明確な答えは、やはり「青い芝の会」の故・横田弘さんが述べている。10羽のニワトリの理論である。次のようなものだ。

「10羽のニワトリを飼っている。その内の1羽が周りからいじめられる。卵なんか産まない。飼ってるのは『ムダ』だってつぶしてしまう訳にはいかない。後の9羽の内からまた1羽弾き出されるやつがでてくるんだよ。」

つまり優性思想には終わりが無い。強い遺伝子を残し、弱い遺伝子を排除しようとしても永遠にゴールはこない。結局、私たちの社会が幸福になるためには最も弱い人間を大事にするしかない。弱い人間とは障害児であったり、老人であったりするはずだ。

弱者を大事にする社会は懐深く、成熟した豊かな社会であり、そこに参加する人間は社会から豊かさを甘受できる。そして私たちはお互いが様々な点で異なっていることを再確認すべきだ。障害者との共生を説いたヴァイツゼッカー元ドイツ大統領は、「違っていることこそが正常」と言った。私たちの社会が多様であること自体が学びの土台になる。障害児が排除される単一な思想に染まった社会に学ぶものはない。