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怒りの面倒をみる2015年04月10日 11時12分26秒

人生の恩人とも言うべき人から、貴重な助言を頂きました。
その内容を、直接話法の形でなく、自分流にアレンジして書いてみます。

この世の中には不条理なこと、苦痛なこと、理不尽なこと、不正なことが山ほどあります。
社会全体もそうだし、あなたが所属する会社もそうでしょう。
ぼくが所属していた大学病院もそうだし、「医局」もそうです。

そういった仕組みや制度を改革したいと思っても、それは大変困難です。社会は容易には変わらないのです。
であれば、発想を変えて自分を変えてみてはどうか?
自分がよりよい人間になっていくことで、周囲に影響を及ぼし、社会が変わる可能性があります。

ま、ちょっと意訳かもしれませんがそういうことを学びました。

この「変わる」というのはなかなか難しく、信念を捨てることがあってはいけない。
社会によって個人が変化させられてはいけません。そうした強さは保持する必要があります。
しかし、自分の欠けているもの、不十分なものがあれば、それらを乗り越えていくべきでしょう。

ぼくに足りないもの。それは「赦す」心です。
明らかに自分の欠陥だと思います。
なぜ、「赦し」の気持ちが弱いのか?
それはおそらく、ぼくは自分を肯定することができないので、人間として弱いのでしょう。
今までの長い人生を振り返ると、ぼくは節目節目で他者から否定されてきた。
それも、ぼく自分にはどうにもできない、ぼくの本質とは関係ない属性を問題にされて否定されてきたと感じます。

ティク・ナット・ハン師は、怒りの面倒を見て、怒りを変容します。
ぼくにはこれができない。
障害児が差別されていたり、在日に対するヘイトスピーチを聞いたり、被差別部落の人が不当な扱いを受けたり、性的少数派が疎外されたり、そういうものを見ると「怒り」が湧きます。

しかし、怒りとは本当に面倒をみなければいけないものなのでしょうか?
「私怨」という言葉があります。個人的な恨みですね。
ですが、「公憤」という言葉だってある。

怒りにも、下品なものと美しいものがあるのではないでしょうか?
「青い芝の会」だって「部落解放同盟」だってマルコムXだって怒っていました。
その結果、社会は大きく変わった訳です。
だから、個人の利害を超越した怒りは大事にしてもいいのではないか?

社会を変えるためにまず、自分が変わる。
そのためにぼくは、「私怨」と「公憤」を切り分けて、自分の自由を束縛する「私怨」に基づいた頑迷な観念から離れる必要がありそうです。
そうすれば自分は、少しでもましな人間になって、ぼくの声は少しでも力を得ることが可能かもしれません。
命が果てるまで、まだもうちょっと時間がありそうです。
少しずつ前進したいと思います。

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