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「我が子、葦舟に乗せて」河口 栄二2015年02月21日 18時04分08秒

我が子、葦舟に乗せて
希有な記録です。
子殺しを起こした母親の側の視点と論理が描かれています。
こうした本は、ほかには存在しないのではないでしょうか?

大変貴重な記録です。

「弱い母」さんのコメントに答える2015年02月21日 18時09分42秒

自分の命よりも大事に思えるのが、我が子の命。
だから、我が子の命が救えるのであれば、自分の命だって差し出しても構わないと感じる人は多いでしょう。
だから、我が子が苦しむ姿を見るのは辛い。これは間違いないでしょう。

障害を持った子・病気を持った子を受容することは決して容易ではありません。
すんなりと受容できたら、そのことの方がはるかにおかしい。
誰でも悩み、傷つき、苦しみます。
なぜでしょうか?
そもそも「障害の子・病気の子」の受容とはなんでしょうか?

それには大きく分けて二つの類型があると思います。
一つは、「自分の子+障害」を受け容れられないケース。
簡単に言うと、我が子に愛着を持つことができない。
ぼくは長い間、医者をやってきて、こうしたケースを数例見たことがあります。
問題解決は困難で、場合によっては治療放棄とか「院内捨て子」とか、あるいは転じて児童虐待と区別がつかないように見えることもあります。

だけど、もう一つのケースは、「自分の子」には愛情がたっぷりあって、「障害・病気」を受け容れずに苦しむ例です。
愛情があればあるほど、「障害・病気」が辛く感じられるという難しさがあります。

どうすれば受容できるのでしょうか?
ケース1でもケース2でも、一番重要なのは「時間」です。
さっき書きましたが、最初から受容できる人などいません。時間をかけて徐々に受け容れていくしかないのです。
そして受容が達成できることに理由はないというのが、ぼくの意見であり、経験です。

最初は、「あきらめ・無力感」があるでしょう。
そして「開き直り・容認」に進むでしょう。
さらに「克服・積極的容認」に発展するでしょう。
あなたはその後「新しい価値観」を創るかもしれない。
その先には「承認・肯定する気持ち」が芽生えるかもしれない。

しかし、受容というのは一直線に進むものではありません。
らせんを描くようにゆっくりと進みます。
そして(ここが重要なのですが)何かの弾みで振り出しに戻ってしまうこともあるのです。
そしてまた、受容の道を進むのです。

ぼくがこんな「画一的な」ことを言ったところで、自分はとても納得できない・信用できない・そんな風に思い描けないと思うかもしれません。

だけど、大丈夫です。きっとそうなります。そうならない以外に生きていく道はありますか?
必ずそうなります。

ケース1の場合、とにかく早く赤ちゃんを抱っこして、我が子との愛情を確かめて、愛をどんどん増やしてください。

ケース2の場合、あなたのお子さんの病気がたとえどんなに希でもあっても、必ず世の中には仲間がいると知ってください。
あなたは孤独ではありません。
見放されていません。
突き放されていません。
あなた達、母子を見守っている優しい目がこの世の中には必ずあります。

新しい治療方法が開発されることを信じることは、もちろん素晴らしいことです。
医者が「不可能」と言っても、無限に信じることができるのが、親の強さです。
信じることと、受容することは両立します。