アクセスカウンター
アクセスカウンター

時間は存在しない2015年02月10日 16時21分15秒

今から何十年も前の話であるが、ある一人の外科医が手術ミスを起こした。
外科医は家族に謝罪し、家族はその謝罪を受け入れた。
だが患者には大きな後遺症が残り、その人は障害者となった。

外科医は激しい自責の念にとらわれ、自死を思った。
死ぬ間際に同僚に発見されて命を取り留めた。その外科医は、いったんは死んだ身と考え直し、外科の修練に自分の人生のすべてを賭けた。
やがて彼は画期的な手術方法を開発し、何百人もの命を手術で救った。彼の弟子たちも次々にうまれ、彼が考案した手術法によって何千、何万という人々が命を得た。

彼が自死を考えた時点で、誰がこの未来を予測しただろうか?
この結果は必然だったのか、それとも偶然か?
それは誰にも分からない。
ただ一つ言えることは、「未来」というものは「形」がなく、決まったものではない。
つまり「未来」とは単なる概念であって、存在しないのだと言える。

「今を生きろ」と言う。
しかし「今」とはなんだろうか?
あなたは、今、この文章を読んでいる。
しかし、一瞬の後に「今」は「過去」になっている。
「今」というのも概念上の産物である。「今」は存在しない。

あなたが歩いて来た道筋には夥しい量の「過去」が積み重なっている。
あなたは「過去」という時間しか持っていないとさえ言える。
「過去」はあなたを苦しめたり、喜ばせたりする。
「過去」を変更することはできない。
あなたがが、今、思っていること、考えていること、働きかけたこと、反応したこと、それらはすべて「過去」になり、修正が利かない。
だから、あなたは、あなたを苦しめる過去よりも、あなたを喜ばせる過去を作った方が良い。

だが、喜びの過去を積み重ねるというのは、言うほど簡単ではない。
人の一生は悩みや苦しみに満ちている。
なぜだろうか?
動物は本能によって生と性を営んでいる。
人が動物と異なるのは、本能が壊れているという点にある。
壊れた本能を埋めるために発明されたのが「心」である。
従って、人は「心」があるがために悩み、苦しむ。
悩みと苦しみを過去に蓄積していくことが人生とも言える。

そうした人生を辛いと考えてはいけない。
人が生きるとはそういうものである。

あなたは、あなたの手段を使って何かの製品を作ることができる。
だから製品には「意味」がある。
ところが、あなたは、製造された「物」ではないから、あなたに意味はない。
しかし、あなたには「尊厳」がある。
その「尊厳」とは、あながた存在しているという事実であり、あなたが「心」を持って悩み、苦しむがゆえのものである。
いわゆる「寝たきり」の重度障害者にも「心」がある。
それは障害者と深く付き合ってみるとわかることである。
会話ができない重症児でも、「嬉しい」と感じたり、「嫌だ」と感じる心がある。
従って健常者も障害者も、尊厳という意味においては同じである。

さて、未来は存在しないと言ったが、誰にでも一つだけ確実な未来がある。
それはあなたの「死」だ。
「死」は恐怖であろうか?
そんなことはない。それは間違った考えだ。
もしあなたが「不死」であるならば、あなたにとって生き甲斐とはなんだろうか?
永遠に生きるならば、生きる価値とか尊厳はどこにあるのであろうか?
あなたは努力をするか? 今日できることを今日のうちにやるだろうか?
「不死」は虚しい。何も達成できないから。

限りがあるから、人は生きる。過去を蓄積して、悩み、苦しみ、人生を作る。
終わりがあるから、人生がある。
終わりが無ければ、その人は死んでいるも同然である。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック