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「風は生きよという」2015年02月01日 21時44分15秒

「風は生きよという」
映画を観てきました。
呼吸器を付けている人、気切をしている人、酸素のサポートを受けている人たちのドキュメントです。
内容は「良い意味」でわかりやすい。

重度障害者の問題、
在宅介護の問題、
呼吸器の問題、
尊厳死の問題、、、
そういったものをすべてきっちりと描ききっていました。

監督さんの視点が良いからでしょう。
純粋で、素直で、感動を表現できる作家さんなのだと思います。
技術的には、編集と音楽がとてもうまいと思いました。

会場は120人が定員で、来場を断った人も多数いたそうです。
しかし、この映画は8月にDVDとして販売されます。

近くなったらまた告知しますね。

ぼくは医学部のアーリー・イクスポージャーのような授業で、このような映画を使えばいいと思います。
医学教育で「倫理学」と「障害学」は、本来もっとしっかりとやるべきですが、実際にはほとんど行われていないのが実情ではないでしょうか?

60分の大変密度の濃いドキュメントですので、ぜひ、DVD化されたらご覧になってください。

人はなぜ、苦しむのか?2015年02月02日 22時59分02秒

あなたの周囲には、たとえささやかでも色々な幸せがあるに違いない。
仕事でも家庭でも、趣味でも人間関係でも幸福の種はいくつもあるだろう。
しかし同時に苦しみも感じているに違いない。
その苦しみの理由を深く突き詰めると、よけいに苦しみが増すのではないだろうか?
なぜ人は苦しまなくてはならないのか?

犬や猫や動物たちは苦しんでいるのだろうか?
苦しみは人だけにあるのだろうか?

人が人になった瞬間はいつだろうか? それは狩猟採集をやめて、定住農耕を始めた時であろう。
その瞬間、人は飢餓の苦しみから逃れることができた。
結果、人口が爆発的に増加し、文明が起こり、階級が誕生した。

階級、それは人間を苦しめる。
貧しい者は苦しい。
ところが富める者も苦しい。人間はその根本において平等であることに心の安寧を求める。
鬱病とは現代病と言われるが、人に不平等が生じた瞬間から人には心の病が巣くい始めている。
富める者は決して幸福ではない。罪悪感すら抱く。億万長者が多額の寄付行為をするのは、贖罪の気持ちがあるからだ。

だから人間とは根本において苦しい。
いつの時代でも、どこの地域に住んでいても、人間の一生は苦しみの連続である。
ある人はこう思うかも知れない。
「なぜ自分は生まれてきたのだろうか? こんなに苦しいのならば、生まれてこない方が良かったのではないか?」
あなたは、自分が若かった頃の写真を見る。
そこに写ったあなたは、色つやも良く、しわもなく、背筋も伸びている。
あなたの両隣に立っている友人も若さに溢れている。
あの頃のあなたと、今のあなたは同じあなただろうか?
いや、違う。あの頃のあなたは人生をそんなに深刻に考えなかった。
ところが今はどうか?
あなたの肩には大きな荷物が覆い被さり、その重みであなたの体は悲鳴を上げている。
心も叫んでいる、こんなはずじゃなかったと。

あなたは人生を意味を問うかもしれない。
だけど、答えは返ってこない。
あなたが、現にそこに存在していることに意味は無いからだ。
理由がある前に、まずあなたは存在し、苦しみを背負ってしまっている。

そうであれば、人生の意味を問うても仕方ないだろう。
いくら意味を問うても、人生は不変である。運命は定まっている。
だからあなたは、人生に対して自分の答えを作っていかなければならない。
その過酷な宿命のもとにあって、人生をどう生きるかを決めるのはあなたである。
あながた人生を決めて良いと気づいた時、あなたは自由を得る。
そして重荷が少し軽くなる。

重荷が軽くなることが重要なのではない。
あなたの自由を誰もおかすことができないと、あなたが気づくときに、人生の意味が初めて立ちのぼってくる。

命よりも大事なものは何か?2015年02月05日 22時14分23秒

あなたが末期のがんにかかったとする。
手術はできない。
抗がん剤や放射線治療をおこなえば、余命が伸びる。
その時、あなたはどうするだろうか?

もちろん正解などはない。
治療を受けて少しでも長く生きる、そして愛する家族と時間を共有するのも良いだろう。
しかし、抗がん剤治療には激しい副作用がある。
その副作用の治療のために、あなたの生活の質は著しく劣ってしまい、家族と時間を共有しても、その時間は苦痛だけかもしれない。
もちろん、経験豊富な医者であれば、副作用は少なく、余命は長く、という治療を見つけてくれるかもしれない。
しかし、どの医者がそういう技量を持っているか、あなたには知りようがない。
それとも、あなたはすべての治療を拒否して自宅に帰るかもしれない。
それは決して悪い選択ではない。
残された時間がわずかでも、自分のやりたいこと、自分にしかやれないこと、自分がやるべきことを、やり遂げることはとても尊いことである。

それは具体的にはなんだろうか?
残った時間で精一杯仕事をする人もいるだろう。
本を読んだり、音楽を楽しむのも良いだろう。
あるいは「自分史」を書くかもしれない。
短い時間でも、あなたはあなたの人生を作ることができる。
だが、運命は変わらない。

人間の一生とは運命と共に二人三脚で生きるようなものだ。
運命はあなたの力で変わることはない。
なぜならば、運命とは、いつの時代とか、どこの社会とか、どういう生育環境とか、どういった対人関係とかと言った、時間と場所と関係性の中で定まっているからである。
あなたが切り開けるのは、あなたの過去だけであり、未来に及ぶ運命の道はあなたをとらえて放さない。

だから、残ったあなたの時間を、意味の無いことに使ってはいけない。
あなたの運命を呪ったり、嘆いたり、怒りをぶつけても何の意味もない。
あなたは運命と共に生きているのであり、運命もあなたの一部である。
あなたがどれだけ運命に対して失望しても、運命はあなたについてくる。
であるならば、あなたは人生を刻んでいったほうがいい。

死なない人はいない。つまり死ぬことは誰にでもできることである。それほど大したことではない。もっと大事なことがある。
その大事なことは、人によって様々だから、あなたが今、元気なうちに自分が依って立つ自己の場所をちゃんと知っておいた方が良いだろう。

A子には、4歳のこどもがいた。
こどもは小児がんにかかり、3年にわたって手術と抗がん剤治療と放射線治療を受けた。
いったんは完治したかに見えたが、腫瘍は再発してその子の全身を蝕んだ。
余命は3カ月くらいと思われた。しかし、その子は、少ない抗がん剤治療を受け続け、2年間を生き延びた。
A子にとってその2年は至福の時間だった。
子どもを失い、8年が経った。
A子の夢は、その子がもう一度、自分の家にやってくることだ。
今度は、がんにならないで? いや、それは違うとA子は言う。
小児がんにならなければ、その子は、別の子であって、もう一度会ったことにならないと言う。
彼女が会いたいのは、小児がんという運命と共にあったわが子なのである。
つまり、A子は、わが子の死を超越している。
命よりももっと大事なものがあり、それは、「その子」と共に時間を過ごすことなのである。
その運命を同時に引き受けるということである。

生きることの苦しみも、避けられない死という運命も、すべて人間の一部である。
あなたの人生に包含されている。
だから、悩みや苦しみや辛さを押しつけてくる運命を否定しても意味は無い。
あなたは自分の運命に絶望してはいけない。
そんな時間があったら、自分の人生を刻み、運命に対して答えを返していった方が良い。
あなたがどう生きるかを、あなたの運命に対して教えてやるのだ。
その時、あなたは生死を超える。

時間は存在しない2015年02月10日 16時21分15秒

今から何十年も前の話であるが、ある一人の外科医が手術ミスを起こした。
外科医は家族に謝罪し、家族はその謝罪を受け入れた。
だが患者には大きな後遺症が残り、その人は障害者となった。

外科医は激しい自責の念にとらわれ、自死を思った。
死ぬ間際に同僚に発見されて命を取り留めた。その外科医は、いったんは死んだ身と考え直し、外科の修練に自分の人生のすべてを賭けた。
やがて彼は画期的な手術方法を開発し、何百人もの命を手術で救った。彼の弟子たちも次々にうまれ、彼が考案した手術法によって何千、何万という人々が命を得た。

彼が自死を考えた時点で、誰がこの未来を予測しただろうか?
この結果は必然だったのか、それとも偶然か?
それは誰にも分からない。
ただ一つ言えることは、「未来」というものは「形」がなく、決まったものではない。
つまり「未来」とは単なる概念であって、存在しないのだと言える。

「今を生きろ」と言う。
しかし「今」とはなんだろうか?
あなたは、今、この文章を読んでいる。
しかし、一瞬の後に「今」は「過去」になっている。
「今」というのも概念上の産物である。「今」は存在しない。

あなたが歩いて来た道筋には夥しい量の「過去」が積み重なっている。
あなたは「過去」という時間しか持っていないとさえ言える。
「過去」はあなたを苦しめたり、喜ばせたりする。
「過去」を変更することはできない。
あなたがが、今、思っていること、考えていること、働きかけたこと、反応したこと、それらはすべて「過去」になり、修正が利かない。
だから、あなたは、あなたを苦しめる過去よりも、あなたを喜ばせる過去を作った方が良い。

だが、喜びの過去を積み重ねるというのは、言うほど簡単ではない。
人の一生は悩みや苦しみに満ちている。
なぜだろうか?
動物は本能によって生と性を営んでいる。
人が動物と異なるのは、本能が壊れているという点にある。
壊れた本能を埋めるために発明されたのが「心」である。
従って、人は「心」があるがために悩み、苦しむ。
悩みと苦しみを過去に蓄積していくことが人生とも言える。

そうした人生を辛いと考えてはいけない。
人が生きるとはそういうものである。

あなたは、あなたの手段を使って何かの製品を作ることができる。
だから製品には「意味」がある。
ところが、あなたは、製造された「物」ではないから、あなたに意味はない。
しかし、あなたには「尊厳」がある。
その「尊厳」とは、あながた存在しているという事実であり、あなたが「心」を持って悩み、苦しむがゆえのものである。
いわゆる「寝たきり」の重度障害者にも「心」がある。
それは障害者と深く付き合ってみるとわかることである。
会話ができない重症児でも、「嬉しい」と感じたり、「嫌だ」と感じる心がある。
従って健常者も障害者も、尊厳という意味においては同じである。

さて、未来は存在しないと言ったが、誰にでも一つだけ確実な未来がある。
それはあなたの「死」だ。
「死」は恐怖であろうか?
そんなことはない。それは間違った考えだ。
もしあなたが「不死」であるならば、あなたにとって生き甲斐とはなんだろうか?
永遠に生きるならば、生きる価値とか尊厳はどこにあるのであろうか?
あなたは努力をするか? 今日できることを今日のうちにやるだろうか?
「不死」は虚しい。何も達成できないから。

限りがあるから、人は生きる。過去を蓄積して、悩み、苦しみ、人生を作る。
終わりがあるから、人生がある。
終わりが無ければ、その人は死んでいるも同然である。

耐えられない苦痛とは何か?2015年02月12日 22時10分13秒

悩みも、苦しみも、そして死も、あなたの人生の一部である。
悩み、苦しみ、死が訪れるから、あなたの人生は完成する。
だが、人には耐え難い苦しみがある。
それはもちろんあなたの死などではない。
この世の中で最も耐え難い苦痛とは、あなたの子どもが苦しむ姿を見ることである。

あなたはなぜ、自分の子どもを欲しいと思うのだろうか?
ある人は、自分の命を「永遠化」するためだという。
自分の死が避けられなくても、子どもを残せば自分は永遠に生きる可能性が生じる。
だから我が子の死こそが最大の苦痛だというのだ。
ある人はこう言う。あなたという人間は存在しない、あなたは、あなたという遺伝子DNAが乗っている乗り物に過ぎないと。
だからあなたは、自分の命を捨ててまで、我が子を助けようとすると。

本当だろうか?
私たちの脳は、我が子を自分の命よりも大事に思うようにプログラムされているのだろうか?
人間はそういった生来的な生き物ではない。
本能に密接に関係するプログラムで自分の生き死にを決める単純な生き物ではないだろう。

子どもを欲しいという気持ちには、複雑な希求が絡み合っている。
そうした思いの中から生命が誕生する。
女性は10ヶ月間、我が子の命と共にある。
男性は、妊婦の腹壁を隔てて我が子に触れて、生命の萌芽を実感する。
愛情は生まれる前から育まれる。
だから、生まれてくると愛情がさらに育つ。

ある医学生が、大学病院の産科の実習についた。
医学生が担当した妊婦は臨月を迎えていた。
産科医の診察が終わって帰り支度を始めると、妊婦に強烈な腹痛が襲った。
医学生が慌てて産科医に連絡をとった。
医師が妊婦を診察すると、一気に分娩が始まろうとしていた。
医学生は分娩に立ち会った。
生まれた来た赤ちゃんを見て、医学生は驚いた。
赤ちゃんは脳がきちんと作られておらず、頭部がほとんど欠けていたのだ。
しかし、母親はしっかりと我が子を胸に抱き、自分の子ども会えたことを喜び涙を流した。
彼女は、胎児超音波検査で知っていたのだ、我が子の先天異常を。
しかし彼女の我が子への愛情が減ることは微塵もなかった。
赤ちゃんの顔は生まれる前から知っていた。そんなことはどうでもよかった。
数分で赤ちゃんの命は果てた。
母親は、嬉しさと悲しさがない交ぜになった感情の海の中でひたすら泣いた。
医学生はその姿に感動し、産科医になることを決意した。

障害があっても、親は我が子が可愛い。
障害児の受容というのは、実は私たちが考えていることと中身が少し違う。
障害児を突き放し、そのうちに少しずつ受け止めていくと、あなたは思っていないだろうか?
そうではない。
あなたに障害児が生まれても、あなたはその子を突き放したりはしないだろう。
だけど、悲しい。
自分が悲しいのではない。
我が子が病気であり、その病気が治らないことが、耐え難く辛いのである。

障害児を授かっても、健常児を授かっても、あなたは我が子に見返りを求めない愛情を注ぐであろう。
なぜ、そこまで我が子を愛するのだろうか?
それは、あなたが、あなたの子の全人生と共にあるからである。
生命が誕生した瞬間から一緒にいる人間は、あなたの人生であなたの子どもだけである。
子どもを授かるということは、命を育むことであり、それは愛情という水で生命の樹木を育てることだ。
あなたの命とあなたの子どもの命が解け合うがごとく、不可分な生命として育っていく。

あなたの脳にプログラムされているのではない。
自分の生命を永遠化しようとしているのではない。
あなたは、あなたの子と生命を分け合っているのである。

だから、あなたは、あなたの子どもが病気で苦しむことに耐えられない。
これ以上の苦痛はこの世に存在しない。
あなたがもし今、死に瀕するような重病にかかっていても、あなたの子どもが何かの病気で苦しんでいたら、あなたは自分の病気のことなど完全に忘れ、あなたの子どもの苦痛をどうやって取り除くか、それだけを考えるだろう。

「障碍を生きる意味―共に歩む」青木 優, 青木 道代2015年02月14日 18時22分55秒

障碍を生きる意味―共に歩む
非常に深い感銘を受けました。
素晴らしい作品です。
1997年に書かれた本ですから、現在と比べると障害児・者を取り巻く環境はやや改善された部分があります。
しかしそれは自然にそうなったのではなく、青木夫妻のような活動が徐々に社会を動かしたからでしょう。

人間一人にできることは高が知れているかもしれません。
しかし何もやらなければ、成果がゼロです。
雨だれが石を穿つように、歴史は少しずつ進んでいきます。

大変な名著だと思います。
多くの人に読んで欲しいですが、とりわけ教育に関係する人にはぜひ読んで頂きたいと思います。

「ペカンの木のぼったよ」青木 道代 (著), 浜田 桂子 (イラスト)2015年02月15日 20時25分30秒

ペカンの木のぼったよ
大変良質な絵本です。
クリニックの一番目立つ所に置きましょう。

自由とは何か?2015年02月16日 22時24分57秒

動物は本能で生きる。
遺伝子のプログラムに従って生きる。
一方、人の本能は壊れており、その壊れた部分を補うために心を発明した。
心の中には様々な世界が広がっている。
その広がりが人間を人間たらしめる。
人は心の中で、何か選択して決定する。
その基準は何だろうか?
もしかしたら道徳観かもしれない。

M子の娘は、重い小児がんだった。お腹の中はすべて癌細胞に占められていた。
抗がん剤治療を繰り返し受けて、腫瘍が小さくなったところで手術がおこなわれた。
手術は完璧だった。
お腹の中の癌は一掃された。

手術が終わって1週間がたち、追加の抗がん剤治療が始まった。
激しい副作用が去って医師たちが、その子のお腹の中をX線検査してみると、癌のかたまりがいくつも再発していた。
医師たちはあらゆる手段を講じたが、癌は日に日に大きくなっていった。
M子は絶望のどん底に突き落とされた。
自分の娘はもう助からないと悟った。
それならば、自分も死んだ方がいいと思った。生きている意味がないと感じた。
いや、自分だけではない。世界が消えてしまえばいいとさえ思った。
M子は、自分たち母子の運命だけでなく、自分が存在している世界そのものを憎み恨んだのだ。
1週間泣き続けたM子はやがて涙を拭った。
悲し過ぎて涙が涸れたと語った。

その頃、M子の母子が入院している大部屋に新しい患者がやってきた。
その男の子はまだ生後10カ月で、やはり小児がんだった。
だが、癌はまだ小さく、転移もしておらず、手術をすれば必ず助かることが約束されていた。
M子を含めて、その大部屋には治癒困難な小児がんの家族が何人も入院していた。
M子たちから見れば、その10カ月の男の子は、うらやましい存在だった。
だが、その男の子の母親は毎日朝から晩までシクシクと泣き続け、なぜうちの子がこんな病気なったのだろうと嘆き続けた。

周囲の母親たちはうんざりした。
手術して癌を取り除き、1週間もすれば退院していく母子。
だがその母親は自身の運命を嘆き、周りに目もくれず、気を使うことも、入院生活の集団ルールを守ることもなかった。

M子は、その母親に近づいた。
手を握り、ぬくもりに満ちた言葉を発して、勇気を伝えた。
あなたの子どもはきっと治ると、母親の心を解きほぐしたのだった。

あなたなら、このような場面でどういう態度を取るだろうか?
人によって答えはばらばらであろう。
M子と同じように優しい言葉をかけたかもしれない。
少し皮肉を言ったかもしれない。
あるいは、もっと周囲のことを考えなさいと怒ったかもしれない。

もし、優しい言葉をかけなければいけないという道徳上のルールがあるとしよう。
そのルールに従わないと、人間は天から罰を与えられると仮定しよう。
こういうルールに生きる人間の姿は美しいだろうか?
いや、そうではないだろう。

人間は、道徳的に美しく善く生きることも、醜く悪く生きることも、自分で決めていい。
なぜならば、心があるからだ。
その心によって、何かを選択し、決定することができる。
これを自由という。
人は心を持ち、自分の道を自由に歩むことができる。
これが人間が人間である理由である。

そして自由の意味合いにはもう一種類の価値がある。
それはM子がとった態度だ。
世界が消えてしまえばいいとさえ思ったM子が、涙に泣き濡れている母親に優しくできる姿は、人間の尊厳を映している。
どれだけ過酷な運命がM子を苛んでも、彼女は優しい心を持ち続けることができる。
ここに、誰にも犯せない人間の心の自由がある。

自由は美しかったり、醜かったりする。
しかしどちらも自由である。だからこそ価値がある。

「我が子、葦舟に乗せて」河口 栄二2015年02月21日 18時04分08秒

我が子、葦舟に乗せて
希有な記録です。
子殺しを起こした母親の側の視点と論理が描かれています。
こうした本は、ほかには存在しないのではないでしょうか?

大変貴重な記録です。

「弱い母」さんのコメントに答える2015年02月21日 18時09分42秒

自分の命よりも大事に思えるのが、我が子の命。
だから、我が子の命が救えるのであれば、自分の命だって差し出しても構わないと感じる人は多いでしょう。
だから、我が子が苦しむ姿を見るのは辛い。これは間違いないでしょう。

障害を持った子・病気を持った子を受容することは決して容易ではありません。
すんなりと受容できたら、そのことの方がはるかにおかしい。
誰でも悩み、傷つき、苦しみます。
なぜでしょうか?
そもそも「障害の子・病気の子」の受容とはなんでしょうか?

それには大きく分けて二つの類型があると思います。
一つは、「自分の子+障害」を受け容れられないケース。
簡単に言うと、我が子に愛着を持つことができない。
ぼくは長い間、医者をやってきて、こうしたケースを数例見たことがあります。
問題解決は困難で、場合によっては治療放棄とか「院内捨て子」とか、あるいは転じて児童虐待と区別がつかないように見えることもあります。

だけど、もう一つのケースは、「自分の子」には愛情がたっぷりあって、「障害・病気」を受け容れずに苦しむ例です。
愛情があればあるほど、「障害・病気」が辛く感じられるという難しさがあります。

どうすれば受容できるのでしょうか?
ケース1でもケース2でも、一番重要なのは「時間」です。
さっき書きましたが、最初から受容できる人などいません。時間をかけて徐々に受け容れていくしかないのです。
そして受容が達成できることに理由はないというのが、ぼくの意見であり、経験です。

最初は、「あきらめ・無力感」があるでしょう。
そして「開き直り・容認」に進むでしょう。
さらに「克服・積極的容認」に発展するでしょう。
あなたはその後「新しい価値観」を創るかもしれない。
その先には「承認・肯定する気持ち」が芽生えるかもしれない。

しかし、受容というのは一直線に進むものではありません。
らせんを描くようにゆっくりと進みます。
そして(ここが重要なのですが)何かの弾みで振り出しに戻ってしまうこともあるのです。
そしてまた、受容の道を進むのです。

ぼくがこんな「画一的な」ことを言ったところで、自分はとても納得できない・信用できない・そんな風に思い描けないと思うかもしれません。

だけど、大丈夫です。きっとそうなります。そうならない以外に生きていく道はありますか?
必ずそうなります。

ケース1の場合、とにかく早く赤ちゃんを抱っこして、我が子との愛情を確かめて、愛をどんどん増やしてください。

ケース2の場合、あなたのお子さんの病気がたとえどんなに希でもあっても、必ず世の中には仲間がいると知ってください。
あなたは孤独ではありません。
見放されていません。
突き放されていません。
あなた達、母子を見守っている優しい目がこの世の中には必ずあります。

新しい治療方法が開発されることを信じることは、もちろん素晴らしいことです。
医者が「不可能」と言っても、無限に信じることができるのが、親の強さです。
信じることと、受容することは両立します。