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人はなぜ生きるのか?2015年01月29日 22時43分31秒

あなたは今、このブログをどうやって見ているだろうか?
パソコンか、タブレットか、スマートフォンか。
いずれにしても何かの電子器具を使ってこの文章を読んでいる。
さて、その電子器具はなぜあなたの目の前に存在するのか?
答えは簡単である。
技術者が、目的をもって、手段をこうじて、製品を作り上げたからだ。
だから、パソコンも、タブレットも、スマートフォンも、存在することに意味を内包している。
違う言い方をすれば、無意味に存在しているわけではない。

では、人が存在する理由はなんだろうか?
もし神が人を作ったのであれば、目的と手段が存在したはずだ。
だが、神はいない。
人間は神が作ったのではなく、ただそこに、無目的に存在してしまっている。
だから人間の定義はない。生きる意味もない。
人とは何かを定義してはいけないし、生きる意味を追い求めることに意味は無い。
したがって、「普通に」生きている人間と、「重い障害を持って」生きている人間との間には、大きな違いはない。

生きているという事実と、人である事実があれば、生命の尊厳は自然に立ち上がってくる。
ただ少し違いを言えば、「普通に」生きている人間には責任が生じる。
定義できない真っ白な紙のように存在してしまっているのだから、生きていく中で自分を決めていくことを自分自身が求める。
その結果、人は自分を作り、生きる道を刻んでいくのだから、人は人に責任を負うことになる。
「重い障害をもった」人は、存在するだけで、人とは何かを教えているのだから、それが人生の役割とも言えるし、生きる上での責任とも言えるだろう。

だから、あなたが、生きることが辛いと感じるならば、それは自分がそういう人生を作ったと言うことだ。
いや、作り方が悪かったという意味ではない。
人生は辛い、誰にとっても。
生まれながらにして薔薇の花園を用意された人など滅多にいない。
人は苦しみを自ら求めているとも言えるし、苦悩のない人生など、何かに責任を負うほどの価値もないと言えるであろう。

そして人生は有限であり、必ず死がおとずれる。
死は必然である。なぜだろう?
なぜ人は死ぬのに生きているのだろうか?
死は特別ではない。
誰にでも降り注ぐ。
高い地位や名誉や金銭に恵まれなくても、すべての人に遍くやってくる。
それはなぜだろう。
答えは難しくない。生と死は対立する概念ではないからだ。

人が生きる中で苦しみを感じるのも、最期に死が訪れるのも、それはすべて生きることの一部だからである。
最初に人が生まれた時、その存在は無意味な白紙であろう。だがそこに自分の責任のもとに形を付け、色を付け、たくさんの苦しみや悩みを盛りつけて、死というものを含めて一生を完成させるのであろう。
だから死は生の一部であって、なんら恐ろしいものではない。
痛みでもなければ暗闇でもない。
自分の生涯が完成する姿である。

だが、その完成を見ずに命が断絶されるのは余りに辛い。
命を奪われることは、死ぬという事実よりも、生が完成しないという意味においてきつい。
だから人は人を殺してはいけないし、殺されてはいけない。

人はなぜ生きるのか?
それは生きること自体が目的とも言えるし、死んで生きることを完成させるために生きるとも言える。
死は恐怖ではない。