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生きることの意味2014年12月31日 16時38分55秒

「運命の子 トリソミー」を上梓してちょうど1年になります。
本の売れ行きは大したことはありませんが、増刷にはなったのでギリギリ合格でしょう。
しかしぼくはこの本を通じて多く人と出会うことができました。
8月3日:下志津病院・市民公開フォーラム(千葉市)
9月13日:スモールグループのサロン(東京・湯島)
11月1日:小児外科・秋季シンポ(兵庫県・淡路島)
11月2日:生命を考える講演会(宮崎県)
11月23日:生命倫理カフェ(東京・練馬)

生きることの意味とは一体なんでしょうか?
高校生の頃は強烈に悩みました。
その結果、「生きる」ことの反対である「死」についても考え、「自死」という想いに囚われたりしました。
また「正常に生きる」ことの反対にも興味を持ち、精神分裂病(当時の言葉)に関する専門書もけっこう読みました。
しかし生きることの意味はついにわかりませんでした。

医師になって多くの子どもの死に立ち会いました。
おそらく100名近い死に接したと思います。
その時にわかったことは「死」というものは存在しないということです。
ある瞬間に子どもに死が訪れても、子どもと家族が断絶してしまうということはありません。
家族はいなくなってしまった子どもを想い続け、姿が消えても共に生きていきます。
たしかに「死」は悲しい。
だけどそれは「恐怖」でも「苦痛」でも「みじめ」でもないとぼくは思うのです。

では「生」とは何か?
「運命の子 トリソミー」に関するいくつもの講演で様々な人に出会いました。
ある女性は車いすに乗っていました。年齢は30歳くらいでしょう。
気管切開をして人工呼吸器が付いていました。
体の動きはまったくなくて、わずかに薄目を開けていましたが、顔に表情はありませんでした。
短時間しかお母様と話せなかったので正確にはわかりませんが、意識はほとんどないように見えました。

ぼくが咄嗟に感じたことは、「あ、この女性はしっかりと生きているな」という思いでした。
存在そのものが生命の尊厳だと感じられたのです。
そしてぼくが高校生の時から抱いていた疑問が解けてしまいました。
「生きることの意味」。そんなものはないと。

人は何を生き甲斐にして生きるとか、人生の目的は何かとか、すぐに議論したがります。
もちろん、生き甲斐も目的も有った方が良いでしょう。
では、そうしたものが無い人間は、優れた人間ではないということになるのですか?
それは違う。
人間とは、まずそこに存在することに意味がある。
存在すること、そして生きていることが「十分条件」と言ってもいい。
その上で、生き甲斐や目的を論じるのはその人の自由なのではないでしょうか?

実存が本質に先立ち、極論を言えば、生きることの意味など無いということになります。
ぼくは30年くらい経ってようやく答えを見つけたような気がします。

そして同時に言いたいことは、たとえ意識のない「寝たきり」の人でも、自分一人では生きていないということです。
私たちはそれぞれが生きることによって、同時に人を生かしています。
私たちの命は人によって生かされていると言えます。
このことは、健全者でも障害者でもまったく同じことです。

生かされている命ならば、丁寧に生きたい。
それがぼくのもう一つの結論です。

2015年も皆様にとりまして良い1年でありますように、心から祈っております。