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「自分で決める」なんてあり得ない 「Yah! Do みやざき」の皆さんに出会って思ったこと2014年12月09日 21時29分52秒

現代の医療は「説明と同意」と言って、患者の自己決定権が大変重要視されています。
これは大変良いことで、医師が患者にろくすっぽ説明もせず、独りよがりな医療をすることなどは論外でしょう。
しかし敢えて言えば、この「自己決定」という言葉には危険が隠れています。

私たちは無人島に住んでいる訳ではありません。
家族と共に、親族と共に、会社や友人と共に、地域社会と共に、生きている。
ある部分では生かされている。
いえ、相当な部分で人は生かされているはずです。

社会的に弱い立場にある人は往々にして、孤立した処で生きることを余儀なくされます。
そうした生き方は苦しい。生きる気力を失ったりします。
ですから、弱い人ほど社会と共に生きる必要がある。
自立障害者の生き方がまさにそれに当たるでしょう。

だから、自分一人で何かを決めるというのは大変困難で、ほとんど不可能に近いのではないでしょうか?
障害胎児を身ごもった時に、自分たち夫婦の判断で「生んで育てよう」と決意する人は実に立派です。そういう夫婦をぼくは何人も知っています。
ですが多くの場合、周囲の声に押しつぶされてしまうのではないでしょうか?
あるいは世間体とか、「戸籍が汚れるかも」、といった心理的な圧迫によって「自己決定」が不可能になっている可能性が高い。
そうした流れの結果として、弱い生命の萌芽は始末されることが後を絶たないのでしょう。

勇気を持って自分で決めると、今度はそれに対する反発のような力が働き、「それでは自分で責任を取れ」という声が湧きます。
自分で責任を取るということは、周囲は無責任になるということですから、その人間は社会から弾かれるということです。
私たちが、よりよく生きていくためには「共生」していくという姿勢を保つこと以外に無いのですが、「自己決定」は「自己責任」に置き換わり、集団から排除され「共生」が不可能になってしまうあやうさがあると言わざるを得ません。

ぼくは何も、私たちがもっと周囲に甘えても良いと言っている訳ではありません。
自立した心を持って、自分という「個」を打ち立てる必要があります。
そしてそうした「個」が支え合って「共生」が実現した時に、今よりちょっと住みやすい社会が実現するのだと思うのです。

「自己決定」を否定すると、「では自立障害者はどうなの?」という声が聞こえてきそうです。
彼ら・彼女らには元々、自己を決定する自由も決定しない自由も何も無かった訳です。
「措置」という名のもとに、行政から「介護」をぽとりと与えられていた。
障害者の運動は地道に継続し力となって、「支援費」という形になりました(これ以降は複雑なので書かない)。
つまり、介護者に報酬を払って自分の意志で生活し、リスクを冒す自由も手に入れたのです。
だから、健全者と障害者では、「自己決定」と言う時の言葉の重さと深さがまるで違うのです。

健全者には「自己決定権」が元々あって、しかし、それを成熟した形で使うことができていない。
有効な道具どころか、陥穽に落ちるリスクであったりします。
一方で、障害者の「自己決定権」は彼ら・彼女らが必死の思いで勝ち取ったものですから、私たちはそれを支援しなければならない。
健全者にとって「避けて通ることのできない共通の課題」(ヴァイツゼッカー元大統領の言葉)と言えましょう。

私たちの暮らす世界はまだまだ未成熟です。だからこそ生き甲斐があるとも言えます。