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赤ちゃんの治療を拒む親2014年10月16日 21時26分55秒

13/18トリソミーの赤ちゃんはかつては医療の対象になりませんでした。
いえ、それどころか、大がかりな手術をおこなうことは禁忌とさえ考えられていました。
そうした考えが医療界にはびこった理由はここでは書きませんが、最近では可能なかぎり保護者の気持ちに寄り添って、良質な治療をおこなっていこうという機運が高まっています。

こうした議論をする時に、では、親が治療を望まないならどうするのか? という話になります。
さらに話が進むと、赤ちゃんを育てたくないために、外科的疾患の治療を拒む親がいるではないかという問題提起になります。

確かに僕も、赤ちゃんの治療を拒む親に苦しめられた経験があります。
詳細にここでその話を書くわけにはいきません。
ほとんど「犯罪」のような出来事でしたから。

しかし、重症児に対して積極的な治療を望む親と、正反対に治療を拒む親というのは、両極端な別問題でしょうか?
僕は違うと思います。
これは、患者家族から医療者に対してつきつけられている同根の倫理問題です。

手術をすれば命を救うことができる赤ちゃんがいる。そして親がその赤ちゃんを受容できず手術を拒否する。
命を得た後、障害が残るか否か誰にもわからないとします。
こうしたケースでは、保護者の態度はネグレクト(育児放棄)と同じです。
児童相談所に通報して親権を停止して手術を強行するという選択肢もあります。
ですがその前に、なぜ、医者は保護者を説得できないのでしょうか?
ここが問題です。
もしかしてその医者には「親の気持ちもわかるな」という心理が働いているのではないでしょうか?
問われているのは、拒否する親の態度であると同時に医者の倫理観なんです。

さらに言えば、逆の関係もあります。
親が治療を望んでいるのに、医療者がそれを拒否する。
患児が超・重症児であれば、そうしたケースもあるんです。

良質な生命倫理観とは何でしょうか?
いろいろな定義があると思います。
だけどたとえばこんなことを考えてください。
あなたの目の前に、ソファーのような車椅子に横たわった20歳の人がいる。
無表情・無反応で意志の疎通はできない。
気管切開をうけており、呼吸の補助を受けている。
それでも親は20歳の子どもに、「世界」を見せたいと思って車椅子で外出する。
ある意味、その人はただ生きているだけと言ってもいいかもしれない。

だけど僕は、その姿に「生きている生命の尊厳」を感じる。
「生命の尊厳」とは何かを、医者は論じるべきではなく、生命がそこに生きていれば、それが尊厳であると僕は信じています。

もうちょっと乱暴に言えば、外科医などしょせんは技術屋ですから、「この子を生かすべきか、生かさざるべきか?」などと高尚なことは考えず、一途に手術をしていれば良いと思います。
自分が神様になってはいけません。

「お尻のふき方」障害児教育の記録2014年10月20日 22時04分54秒

「お尻のふき方」障害児教育の記録
昭和62年に発行された古書ですが、大変良い本でした。
入手は困難かもしれませんが、教育とは何だろうかということに興味のある方は、ぜひ探してみてください。

内容も良いのですが、言葉の一つひとつが良いんです。
こういう本が絶版になってしまうので、本当に残念です。

ネットで無料で読めるようにするとか、いろいろな方法があると思います。

新しい mac2014年10月21日 23時56分10秒

新しい mac
色々と苦労しましたが、新しい環境に移行しました。
本体は、mac mini を選択。
モニターは、iiyama の27インチです。
これは実にきれい。もう21.5インチには戻れません。

さようなら「命のダイアリー」2014年10月24日 23時05分58秒

さようなら「命のダイアリー」
本日、講談社の部長さんから丁寧な手紙が届き、絶版が決まったと教えて頂きました。
ベスト&ロングセラーを生み出すというのは、本当に難しいですね。

あまり売れなかった本書ですが、小児がんに打ち克った子ども達の姿を描いています。
傑作ではないかもしれませんが、良書だと思います。

講談社から、僕のところへ何冊か送られてくるようです。
本書を欲しい方は連絡ください。
(ブログのコメント欄ではなく、メールでお願いします)

なぜブログを書くのか?2014年10月26日 23時46分08秒

これはなかなか難しい問題で、クリアに答えることができません。
2006年から書いているので、相当な分量になっています。
最初の頃は、「物言う小児外科医」という感じで、「母校」や「小児外科学会」や「小児がん治療」に一言意見を言っていました。
また、自分の交友録などのかなりプライベートなことも書いていた。
ネタはいくらでもあったので、毎日スラスラと書きまくったものです。

それがしだいに苦痛になって、なぜブログを書くのか分からなくなってきました。
私見はあまり述べず、ひたすら「書評」を書いていた時期もあります。
現在あまり書評を書いていませんが、読書のペースは落ちていません。
書評を書いていない本も多数あるし、「読んだ」とだけ書いて感想を書いていないブログもありました。
たとえば藤原章生の「世界はフラットにもの悲しくて」
http://www.amazon.co.jp/dp/4886960324

の書評は書いていません(今度くわしく報告します)。

さて、最近、東大小児外科の前教授先生と話しをしていたら、先生はエッセイのつもりでブログを書いていると。
http://blogs.yahoo.co.jp/hashi_wineclub

そうなんです。たしかに大変レベルが高い。
ぼくは到底真似できない。
作家の角岡伸彦さんも、
http://kadookanobuhiko.tumblr.com

中村安希さんも、
http://akinakamura.sakura.ne.jp/wordpress/

ブログを書く理由(やめない理由)を書いています。
ぼくのブログなんぞとは比べてはいけませんが、こんなブログでも、まあ、少数の読み手がいます。
期待してくれる人がいるうちは、ほそぼそと続けましょう。
しかし「何を」書くか?
これはかなり難しい。
エッセイが書ければいいのですが、そういう才能がありません。

FaceBook にもたくさん書き込みをしています(一般の人には読めない)ので、ちょっとした「私見」に関してはどちらに書くべきか迷ってしまうし、記憶力が減退していますので、どちらにも書いていなかったことを忘れたりします。

ただ一つ言えることは、自分の考えを基本から整理し直すには、文章を書くという方法がすぐれており、それにはブログがいいかなと思います。
文字にすると論理の一貫性や正当性が理解できますからね。

しかし困っているのは、視力の悪化(左目の近視と両目の老眼)。
モニター画面の文字もよく見えないし、キーボードのキーも見えない。悪いことにブラインド・タッチもできない。
だから誤字・脱字が多いんです。

あんまりみっともない文章は人目に晒したくありませんので、ブログの更新が最近は億劫という訳です。

継続は力なり・・・ですが、長年続けたブログをすっぱりやめてしまうのも、かなり「力」が必要です。
今日は、誤字は無いかな??

障害胎児の生命倫理をめぐる4つの視点2014年10月28日 22時02分49秒

ちょっと小難しい話を書きます。

障害胎児を中絶することは倫理的に許されるのか?
日本では法的に許されていませんし、倫理的にも許容されているとは言えないでしょう。
では欧米ではどうでしょうか?

4つの視点があります。
簡単に論じるために、あまり多くの国は登場させないことにします。
まずイギリス。
イギリスでは医療費が原則無料ですから、国が医療のあり方に介入してきます。
二分脊椎やダウン症の子を、出生前診断で「間引いた」場合と、検査せずに産ませて治療した場合で、どちらがコストがかからないかを計算する訳です。
経済の論理が生命倫理を超えてしまうのですね。
もちろん、こんな医療が正しいはずがありません。論外です。

フランスも出生前診断が盛んです。
その理由はいくつかありますが、この国の特異なところは、優性思想を肯定しているところにあります。
「ソフトな優性思想である」と自らが認めているのですね。
優性思想が大変危険なことは、改めてここで書く必要はないでしょう。
きわめて危険な思想が跋扈している社会と言えます。

アメリカでは二つの考え方が対立しています。
まず、プロライフ派。「プロ」というのは「〜〜に与する」という意味です。
つまり「ライフ=生命」に与する。
キリスト教保守派の考え方です。
生命は何よりも尊いので、どんなケースでも中絶は許されない。
受精の瞬間から生命は成立するという思想です。

しかし、僕はこれに必ずしも賛成ではありません。
人の命がどの時点で成立するのか?
これはなかなか難しい問題ですが、「脳死」のような考え方を導入すると理解可能かもしれません。
「脳死」というのは、ある瞬間の一点の死ではなく、徐々に脳が腐っていく連続的な死なんですね(これが古典的脳死概念)。
生命も同じではないでしょうか?
受精の瞬間は「生命の萌芽」です。これが週数を重ねるごとに「生命」に連続的に変化していく。
ある一点というのはなかなか決められない。
しかし、子宮外で生きられるか、生きられないかは、かなりはっきりした分岐点のように思えます。
ですから、22週で線を引くのはそれほど間違っていない気がします。
プロライフ派の言うように、どんな生命でも中絶できないというのは、ちょっと難しい面があって、たとえば、強姦によって誕生した生命も中絶できないのが果たして正しいのか、疑問に思います。

逆の立場が、プロチョイス派。
女性には選ぶ権利があるという立場ですね。
こうした考え方は欧米でかなり強く、60年代の公民権運動を経て鍛え上げられてきました。
そして中絶を選ぶ際には、胎児は生命ではないという思想基盤が必要になります。
そこで考え出されたのが「パーソン=人格」論です。
人というのは、パーソンになって初めて人権(=生命)を有するという考え方です。
胎児にはパーソンは無いから中絶は、女性(母親)の権利として大手を振って許されると解釈するのです。

大変危険な考え方ですね。
じゃあ、重度障害児・者には人権は無いんですか?
寝たきりで、会話しない人は、人じゃないんですか?
僕が考える「生命の尊厳」とは、「生きている」から「尊厳がある」というものです。
ですから、「尊厳死」というのは、自家撞着を起こした言葉であって、そんなものは存在しないのです。
ただ、念のために言っておけば、僕は、がんの子どもの末期において、瀕死の子どもに蘇生術を施した経験は一度もありません。

日本でも女性運動の高まりの中で、「女が選ぶ」という主張が台頭した時期がありました。
それに対して「青い芝の会」が、「あなた達に障害児を堕胎する権利があるのか?」 と問いかけた。
その結果、二つの運動体は昇華・止揚して、「女性が産みたい社会、産める社会を国家は作れ。産むか産まないかを国が決めるな」という方向に成熟したのです。

日本の女性運動は、欧米を完全に思想的に凌いでいると思います。

ちなみにイタリアではカトリックの力が大変強く、中絶は合法ですが、産科医たちの中には、「良心的中絶拒否の医者」という人たちがいる。
そして医師が自己のキャリアを積み上げていくためには、中絶に手を出せない。
その結果、あと数年するとイタリアでは中絶が不可能になると言われているそうです。

あいまいな思想性を持つという我が祖国ですが、あんがい、生命倫理はしっかりしているのではないでしょうか?

「小児神経科長期フォローアップ―慢性呼吸障害と在宅人工呼吸療法」 佐々木 征行2014年10月29日 22時32分24秒

小児神経科長期フォローアップ
なかなか出会えることのない良書でした。
医者が読んでも、一般の人が読んでも、深く心の奥底に届くものがあるでしょう。

人生が二度あれば、、、僕は医者にはならないと前に書きましたが、「小児神経科」はなってみたい気がします。