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神奈川新聞 19702014年06月08日 15時55分39秒

神奈川新聞1970
先日、神奈川県立図書館へ行ってきた話を書きました。
1970年に起きた事件を報じる記事を手に入れるためです。

3人の子どものうち2人が障害児。そのうちの下の2歳の障害児が泣き止まないために、感情的になった母親は子どもを殺めてしまいました。
余りにも貧困な福祉政策・不足する福祉施設。
悪いのは母親ではなく、福祉政策。
ある意味、母親は犠牲者である。
当時、横浜では母親の減刑嘆願運動が起きたのでした。

これに対して強烈な異議を申し立てた人達がいました。
CP(脳性マヒ)の団体である「青い芝の会」です。
子殺しをした母親が免罪されるのであれば、自分たち脳性マヒ者は「殺されてもしかたがない存在なのか」と抗議の声を上げたのです。

「青い芝の会」はこの事件に異議を唱えることで、団体・運動として大きく発展していったように思えます。

朝日新聞の本多勝一さんは「母親に殺される側の論理」という評論を書きました。
CP者の横塚晃一さんは「母よ! 殺すな」という本を上梓しました。
この本は「生活書院」から現在でも販売されていますから、多くの人にぜひ読んで欲しいと思います。

「青い芝の会」は、「過激である」とか「戦闘的である」とか「怖い」とか、1970年代から1980年代にかけて「健常人」にとっては畏怖の対象だったかもしれません。
しかし、当時、障害胎児の生命倫理に対する議論の中心を担ったことは誰にも否定できないと思います。
我が国では生命倫理に関して、アメリカのように激しい議論がないという意見があります(ぼくもそういう原稿を書いた経験があります)。
だが、歴史によく学んでみればそうではない。

母体保護法の胎児条項に対しては「青い芝の会」が闘った。
クアトロマーカー・テストに対しては日本ダウン症協会が闘った。
新型出生前診断(NIPT)に関しても同じでしょう。
つまり日本では「命を脅かされる側」の患者が常に声をあげてきた歴史があるということです。


この事件から44年が経過し、この母親はいまどうしているのでしょうか?
人生はリセットできませんから、その辛さを思う時にぼくは本当に胸が痛みます。
新聞報道というのは、こうした形で半永久的に残りますから、個人の罪は消えても、歴史的な意味として人々に問いを発し存在が有り続けるのでしょう。