熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録 ― 2013年12月30日 00時14分39秒

面白くて一気に読んでしまいました。
何かの書評に、阿佐田哲也の「麻雀放浪記」との共通性みたいなことが書かれていましたが、それはちょっと違うような気がします。
現在大ベストセラー中のようです。
何かの書評に、阿佐田哲也の「麻雀放浪記」との共通性みたいなことが書かれていましたが、それはちょっと違うような気がします。
現在大ベストセラー中のようです。
流星ひとつ 沢木 耕太郎 ― 2013年12月30日 23時00分33秒

ノンフィクション史に残る傑作だと思います。
正直に言うと、最初はちょっと軽く見下して本書を買おうとしませんでした。
「地の文」が無く、会話だけで本を構成するのはイージーだと感じたし、藤圭子さんが亡くなった時期に出版するのは「企画もの」みたいな先入観があったのです。
しかし余りにも世評が高い。で、買って一気に読みました。
沢木さんがこの本を封印した理由の「一つ」は、会話だけでノンフィクションを書くということの、ある種の実験に藤圭子さんを利用したという悔いがあったようです。
だけど、それを沢木さんが負い目に感じる必要はないと思います。
物書きとはそういう仕事です。
そして34年の歳月を経たことで、本書は「醸成」し、類い希なノンフィクションへと高まりました。
つまり34年間寝かせておいたという事実自体もこの本の一部になっています。
そうでなければ、あの「後書き」は書けない訳でしょ?
だからこの本は、本に書かれた文字にプラスして、34年間眠っていたという経緯が合わさってノンフィクションになっている。
地の文を書かないことで、多くの読者は、この本は単なるテープを起こしたインタビューと思うかもしれません。
しかし、実際にインタビュー内容を文章として商業誌に発表した経験のある人ならば、本書はそういうものではまったくないと、読み始めてすぐに分かります。
私たちは会話において、全く意味の無いことや、論旨が不明なことや、くり返しの内容を相当な時間喋っているんです。
従って、インタビューした内容をテープ起こしすると、そのうちの50%は捨てることになります。
また「意訳」することも大いに必要になります。
ですから本書は、沢木さんが相当時間をかけて、文章を丁寧に作っていったということは間違いありません。
そして会話(インタビュー)の内容がいい。
それは、沢木さんに「インタビューとは何ぞや」という問題意識が明確にあるからです。
最初、藤圭子さんはほとんどやる気のない態度を見せています。
ところが中盤からどんどん話し始めて、終盤では自分の精神をさらけ出します。
その過程もいいし、明らかにされた内容も深くて重みがある。
沢木さんが、藤圭子さんのそういった言葉の数々を引き出しているんですね。
ノンフィクションとフィクションの違いはなんでしょうか?
色々な定義、あるいは特徴があるでしょう。
フィクション(純文学)とはどれだけ豊饒に語れるかで文学作品として評価が決まると思います。
大江健三郎先生や安部公房先生のように。
溢れるような言葉の洪水の中で物語る訳ですね。
だから音楽や美術にかなり近い。
一方、ノンフィクションとはいかにムダを省くかで価値が決まる。だけど大事なことは、詩情を残さなくてはいけない。
このバランスがノンフィクションの真価です。
地の文の無い本書は、そういう観点から見ても、ノンフィクションの一つの究極に到達していると思います。
年間に100から120冊くらいのノンフィクションを読み続けていてもこういう傑作に出会うのは3年に1回くらいだと思います。
ちなみに50歳未満の人は、藤圭子さんという歌手を余り知らないでしょう。
しかしそういった読者が本書を読んでも、この本の素晴らしさはまったく問題なく理解できると思います。
正直に言うと、最初はちょっと軽く見下して本書を買おうとしませんでした。
「地の文」が無く、会話だけで本を構成するのはイージーだと感じたし、藤圭子さんが亡くなった時期に出版するのは「企画もの」みたいな先入観があったのです。
しかし余りにも世評が高い。で、買って一気に読みました。
沢木さんがこの本を封印した理由の「一つ」は、会話だけでノンフィクションを書くということの、ある種の実験に藤圭子さんを利用したという悔いがあったようです。
だけど、それを沢木さんが負い目に感じる必要はないと思います。
物書きとはそういう仕事です。
そして34年の歳月を経たことで、本書は「醸成」し、類い希なノンフィクションへと高まりました。
つまり34年間寝かせておいたという事実自体もこの本の一部になっています。
そうでなければ、あの「後書き」は書けない訳でしょ?
だからこの本は、本に書かれた文字にプラスして、34年間眠っていたという経緯が合わさってノンフィクションになっている。
地の文を書かないことで、多くの読者は、この本は単なるテープを起こしたインタビューと思うかもしれません。
しかし、実際にインタビュー内容を文章として商業誌に発表した経験のある人ならば、本書はそういうものではまったくないと、読み始めてすぐに分かります。
私たちは会話において、全く意味の無いことや、論旨が不明なことや、くり返しの内容を相当な時間喋っているんです。
従って、インタビューした内容をテープ起こしすると、そのうちの50%は捨てることになります。
また「意訳」することも大いに必要になります。
ですから本書は、沢木さんが相当時間をかけて、文章を丁寧に作っていったということは間違いありません。
そして会話(インタビュー)の内容がいい。
それは、沢木さんに「インタビューとは何ぞや」という問題意識が明確にあるからです。
最初、藤圭子さんはほとんどやる気のない態度を見せています。
ところが中盤からどんどん話し始めて、終盤では自分の精神をさらけ出します。
その過程もいいし、明らかにされた内容も深くて重みがある。
沢木さんが、藤圭子さんのそういった言葉の数々を引き出しているんですね。
ノンフィクションとフィクションの違いはなんでしょうか?
色々な定義、あるいは特徴があるでしょう。
フィクション(純文学)とはどれだけ豊饒に語れるかで文学作品として評価が決まると思います。
大江健三郎先生や安部公房先生のように。
溢れるような言葉の洪水の中で物語る訳ですね。
だから音楽や美術にかなり近い。
一方、ノンフィクションとはいかにムダを省くかで価値が決まる。だけど大事なことは、詩情を残さなくてはいけない。
このバランスがノンフィクションの真価です。
地の文の無い本書は、そういう観点から見ても、ノンフィクションの一つの究極に到達していると思います。
年間に100から120冊くらいのノンフィクションを読み続けていてもこういう傑作に出会うのは3年に1回くらいだと思います。
ちなみに50歳未満の人は、藤圭子さんという歌手を余り知らないでしょう。
しかしそういった読者が本書を読んでも、この本の素晴らしさはまったく問題なく理解できると思います。
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