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「万延元年のフットボール」をどう読むか2013年09月19日 22時46分03秒

この作品を境にして、大江先生はあちらの方へ行ってしまいました。
あちらというのは、思弁の世界です。
あるいは言語の世界とも言えるし、詩の世界とも言える。
また、文体やリズムとか、音楽を感じさせる世界かもしれない。

「奇妙な仕事」に始まった大江文学は、閉ざされた状況を描くことで、人間の実在を主題にしていました。
ま、分かりやすく言えば、実存主義そのもの。
初期の最高傑作は「死者の奢り」でしょう。

ところが大江先生は私生活において、障害児を授かります。1960年代初期ですから、はっきり言えば、間引かれた命だった可能性も大いにあった。そういう時代です。
おそらく、大江先生は猛烈に葛藤し、最終的に我が子を受け入れ、「個人的な体験」を書いたのでしょう。
ここがひとつの方向転換ですね。
で、同時に作家としてどう生きていくか、何を書いていくか、深く悩んだのではないでしょうか?

障害児を授かるという事実は、哲学的な命題を軽く吹っ飛ばして、実存は本質に先んじようが、どうであろうが、現に障害児が我が子として目の前に存在するという重さに圧倒されてしまったことでしょう。
そして「個人的な体験」の延長に作家人生を見通してしまうと、書きたいことが、文学から離れて、評論とか解説とか説教みたいになってしまうと考えたはずです。

そこでさらにもうひとつ転換して、障害児を授かったことは保留しながら、で、同時にそこから離れて、純粋な文学の持つ言葉の可能性に挑戦したのではないでしょうか。この万延元年のフットボールで。

本作で、主人公は自分たち夫婦の障害児を見捨てているんです。
これを、「個人的な体験」のその後と捉えて、「個人的な体験」で受け入れた子どもを突き放しているので、あれは「仮の受容」だったという解釈もあろうかと思いますが、それはちょっと違うでしょう。
先日も書きましたが、「仮の受容」の暗示は、「個人的な体験」のラスト数ページで書き尽くされているのです。
本作では、そういうことを書きたかったのではない。

主人公は、友人の奇妙な自殺を自分に重ねて、自分の「根」を失い、未来に向かって進めなくなっている。
夫婦の仲も破綻しているし、障害児の将来に展望もない。
だから、この主人公は時間軸で言うと、横にしか動けない。
過去を振り返ることはあっても、評論家のような非・当事者のような態度を取る。コミットしない。

一方、主人公の弟は、100年前に万延元年の一揆を自分に重ねて、過去から現在に至る時間の流れを一身に受け止めている。
弟は親衛隊を組織して(フットボール・チームを作り)、村に暴動を起こす。
だけど誰が考えてもこの暴動に未来は無いんです。
従って、弟が辿る生命のどん詰まりを読者は予言できる。

兄と弟は、時間の流れにおいて「丁字」に衝突することが本作の骨格になっている。
そしてその衝突において、ふたつの破壊、すなわち、主人公の妹の破滅と、主人公の妻の破滅が描かれる。
だけど、小さな希望もあって、それは、夫婦は二人の子どもを育てようと、困難を背負い込むところにそれが現れている。
しかしこの困難はかなり大きなもので、本当に主人公に未来は見えているのか、読者は懸命に考える必要に迫られます。

こういったことを、大江先生は決して平易には書いていません。
だけどそれは「難解」とは違うと思う。
こういう文章・文体・表現は、音楽と同じで、そういった文字を奏でることで四国の森の中の「立体」と、100年に及ぶ「時間」が浮き上がるのではないか。
だから、万延元年のフットボールは、この文章以外では成り立たないと思います。
文学とはこういうものだと思うし、文字に力があるとは、こういう本を指すのでしょう。
ノーベル文学賞を受賞した時に、本作がその受賞理由のひとつになったと聞きます。
それは大変納得できるのですが、ヨーロッパ言語で大江文学が本当に理解できるのかについては大変疑問です。

1967年の作品ですから、現代の人から見ればもう完全に古典でしょう。
しかし元々「時代」や「今」を描いた作品ではないので、若い人にも読んでもらいたいなと思います。

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