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外科におけるパラダイム・シフト2013年05月23日 22時43分43秒

うちのクリニックに「怪我」や「熱傷」で受診する患者さんに、僕は「消毒しない・ガーゼは使わない」と説明します。
患者さんは、驚いたり、あるいは納得する表情をする人もいます。

20世紀の外科は「消毒して、傷を乾かす」という治療でした。
それが180度転換したのですから、これはパラダイム・シフトと言ってもいいかもしれません。

医学史を学ぶということは、パラダイム・シフトを確認していくことと、歴史がどの方向からやってきてどこに向かっていくかを知ることにあります。

古代ギリシアのヒポクラテスをどのように評価するかは、その医者の人生観(医療観)によると思いますが、彼が、人の自然治癒力を信じていたこと、そして、「考える」ことよりも事実を「観察」することで問題を解決しようとしていた点は見逃せないと思います。

ローマ時代に登場したガレノスは、中途半端な解剖学とキリスト教的な「魂・肉体」論を結びつけたため、科学的な解剖学に到達できず、それどころか、教会のお墨付きを得たがために、その後の解剖学の進歩を止めることになります。

正しい解剖学が確立したのは、16世紀のヴェサリウスの解剖学、17世紀のハーヴェイの血液循環理論によってです。
つまり人類は1000年以上も医学を進歩させることができなかった訳です。
人はこれを欧州の暗黒時代とよび、キリスト教の力が強すぎたことの弊害と指摘します。
(ただ、イスラムや中国でそれ程画期的な医学の進歩は無かったのだから、キリスト教にすべて結びつけるのはちょっとどうかと思いますが)

なぜ、ヴェサリウスやハーヴェイはパラダイム・シフトを起こすことができたのでしょうか?
それはやはりヒポクラテスの言うように事実を見る目がしっかりしていたからだと思います。
自然科学のすべての基本は「事実」にあります。
事実とは何かと言う難しい議論もありますが、ここで言う事実とは、皆さんが想像するような自明な事実です。
たとえば、コップに水がちょうど50%入っていれば、50%という事実は誰にも曲げることはできません。
「けっこう入っている」とか、「あんがい入っている」という表現は文学ではあり得ても、自然科学ではあり得ません。

事実を積み上げて、その中にある論理を見いだせば、それが科学になります。帰納的推論ですね。

こんな当たり前のことが実は難しかったりします。

外科の開祖は16世紀のフランスのパレです。
「我、包帯す、神、治したもう」の言葉で有名です。
当時の外科医は「理髪外科医」であり、「戦場外科医」でした。
銃創で傷付いた患者には煮えた油や焼きごてが当てられていました。
麻酔の無い時代ですから、これは耐え難い痛みだったでしょう。
ある時、パレは自分のミスで、煮えた油を切らしてしまいました。
仕方なく彼は、卵黄と油を混ぜた軟膏を患部に塗ります。
翌日、患者は痛みが取れていました。
これもパラダイム・シフトでしょう。
偶然の要素に、患者への観察眼がこの変革をもたらしたのだと思います。

ぼくが研修医になった頃(大学を辞めるまでずっとそうでしたが)、外科的処置をする時の、「無菌状態」か、それともそうでないかの区別は徹底していました。
骨の髄まで叩き込まれたと言ってもいいでしょう。
手術後の傷は毎日イソジンで消毒しないと化膿すると信じ込んでいたし、滅菌された道具一式の中に何か一つでも患者に触れたものが混じったら、すべて取り替えたものです。

だけど何となくそれは変だと思っていました。
変だとは思っていたけれど、固定概念に縛られるんですね。
中世の暗黒時代と同じです。

だけど小さな事実を積み上げていけば、傷は化膿しないと知ります。
化膿する原因は傷の中の「異物」。つまり傷の汚染。
それは、洗えば解決する。消毒液でなくていい。
水道水で十分なのです。
そしてヒポクラテスの言うように、人には自然治癒力があって、傷からはFGFという成長因子が液体として出てくるので、そのままにしておけばいい。
ガーゼを乗せると、傷が乾くので治らないという訳です。

ヒポクラテスは、四体液説という有りもしない病因を唱えましたが、今日でも彼は医学の始祖として語り継がれ崇められています。
それはなぜでしょう?
その理由は、彼は紀元前400年にあって、医療倫理を説いたからです。
ヒポクラテスの誓いは現代でも色あせることはないと思います。
彼なら、「出生前診断によってダウン症を人工妊娠中絶してもいい」とは絶対に言わないと断言できます。