アクセスカウンター
アクセスカウンター

「ダウン症の子をもって」 (新潮文庫) 正村 公宏2012年06月17日 23時09分53秒

ダウン症の子をもって
10年以上前に読んだ本ですが、ふと気になって読み返しました。

10年一昔と言いますが、ぼくもやはり10年の間に老化もしているし、同時にまた人間として根が深くなっている。
自分の子どもも10歳の年齢を重ねた訳で、自分の生き方とか家族のあり方、そして障害と社会の関わりに関して洞察が深くなりました。

要するにこの本を読んで非常に感動してしまいました。

21トリソミーとは何でしょうか?
病気ではない。
障害を有するが、障害の一言では言いくるめられない。
個性などと言うと、カッコつけているだけで傍観者みたいだ。
染色体異常? そんな冷たい言葉は似合わない。

健常児と言われる子ども達は、1歳で歩き、2歳で2語文を喋り、3歳で自分の名前を言える訳です。
ですが、ダウン症の子ども達にとっては、こういった時間のスパンは意味を持ちません。
時間の流れが違うんです。

私達の20年が、彼ら・彼女らの3年くらいかもしれない。
つまりそういった時間の感覚が意味を持たないのでしょう。
年齢を超越している、歳月は眼中にない、ということでしょう。

筆者の提唱している「福祉社会」のあり方は、これまでぼくが考えて来たこととほとんど完全に同じと言っていいでしょう。
というか、ぼくが曖昧に考えて来たことを正村さんが明確な文章で形にしているということのみが、違いです。

不十分な社会の福祉体制や、お子さんに対する苛めなどに対しても決して感情的にならず、しかし同時に甘い幻想も抱かずに現実を見詰めていく姿は実に立派だと思いました。

私達はもっと精神的に成熟する必要があると思います。

民主党が事業仕分けをすれば拍手喝采し、ところが「ハヤブサ」の物語に感動すると研究費をもっと付けろと批判し、生命保険会社のCMにダウン症の子どもの写真が出れば感動したと絶賛され、人気漫才師の母親が生活保護を受けていれば制度を見直ししろと大騒ぎになる。

本当に私達は私達を幸福にしている一流の国に住んでいるのでしょうか。

福祉社会を発展させる上で、もっとも重要なことを一つだけ挙げれば、それは障害者と健常者の交流だと思います。
無知は無理解になり、無理解は偏見につながります。
そして偏見は人間を殺す側に転ばせます。

ぼくの自宅は障害者の通所施設の目の前にありますので、うちの子ども達はそういった人たちを見て育ちました。
とても良い環境で育ったとぼくは感謝しています。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック