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「エレクトラ―中上健次の生涯」 (文春文庫) 高山 文彦2012年05月06日 22時20分11秒

エレクトラ―中上健次の生涯
大変難しい本でした。
中上健次の生涯を描いた評伝ですが、まず、ぼくには中上健次という人間がとても難しく感じます。

彼は、被差別部落で私生児として産まれます。
もしその生い立ちの中で、ひどい差別に苦しんだのであれば、彼という人間は理解しやすかったと思います。
だけど中上は、東京へ「パッシング」してしまう。
だから難しい。
梅干しの種の殻を割ると、その中には白い核がある。
その核が何なのか? 中上の核は何か?
自明のようで、けっこうそれが難しい。

北条民雄との対比や類似性の分析もありましたが、ぼくにはこの二人は根本的に別の場所いると思います。
北条民雄は「らい文学」というジャンルを否定し、自分にとっての「らい」は「場合」に過ぎないと言っていますが、ぼくにはそうは思われません。
彼は、「場合」ではなく、「らい」という決定的運命から逃れられなかったのです。
一方、中上はどうでしょうか。
彼の「白い核」に「被差別部落」が決定的な刻印になっているかどうかは、ぼくの頭では理解しきれませんでした。

そして中上の作品が難しい。
ベストセラー作家だった訳ですから、多くの読者がいた訳です。
だから、難解な文学ということはないのかもしれません。
だけどぼくにとっては、中上作品は難しかった。
「19歳の地図」とかはよく分からなかった。
こういうのは、脳の相性の問題なのでしょうか?
一般に大江健三郎の文学は難解だと言われますが、ぼくの頭にはスラスラと入ってくる。
特に彼の文体が心地良い。
だけどそれは「万延元年のフットボール」あたりで、ぷつりと消えてしまうんですよね。

そして「文学」自体がこんなにも難しいものだったのかと、今さらながら驚きました。
中上健次と編集者の葛藤にはすごいものがあります。
作家という職業は、作品を産み落とすために、ここまで苦しみ抜かなければならないのでしょうか?

では「文学」の役割とは一体何なのでしょう。
物事の「真実」を伝えるためだけならば、「事実」を羅列すればすむ訳です。
「解説」でも「評論」でも「説明」でもいい。
中上健次と「ノンフィクション」の激突も描かれていますが、事実の持つ重みや、それを伝える難しさは、「文学」とは関係がないのかもしれません。

音楽や美術の目的が、美しさを追求すること、人の心を揺さぶって感動を引き起こすことにあるのならば、文学は、音楽や美術とまったく同じカテゴリーにあると言えましょう。

人はなぜ文学を書くのか。
書きたいから書くのでしょうね。
だけどここまで苦しむ理由は、芸術に限らず人間のあらゆる営みや労働が、悲しみや苦しみを求めているからでしょう。
小説を書くという行為は、そういったものが端的に表れるのでしょう。

というわけで、大変難しい本でした。
1日で読んでしまいました。

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