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ノンフィクションをどう書くかーーー 角岡伸彦さんの受賞に寄せて2011年08月08日 20時34分52秒

ノンフィクションをたくさん読み、自分でも書くようになると、ノンフィクションとはどういう文学で、どう書いたらいいのか深く考えるようになります。

そもそもノンフィクションとはなんぞやという大命題がありますが、これに深入りすると抜け出せなくなりますので、ここでは簡単に「事実に基づいて書かれた作品」としておきましょう。

さて、書くにあたって最も重要なことは、「視点」と「語り口」になります。
これは作品の題材(対象)とも密接に関係します。
最初の決めごとは、「自分」を書くのか、「他人」を書くのかにあります。

「自分」を書くとは、自分の体験・経験した出来事、出会い、会話、情景を書くということ。
「紀行文」とか「旅行記」とか「闘病記」とか「診療録/介護経験」とか「裁判傍聴記」とかがそれに相当します。
そしてここに事実に対する分析が加わり、その比重が厚くなればそれを人は「評論」と呼びます。
逆に自分の考えを一切排除して、調査の意味合いが強くなるとそれを人は「ルポルタージュ」と呼ぶかもしれません。

自分を書く際に、自分の心理を深く書く場合もあるし、自分を殺して自分が見て聞いて触れたものだけを描写することもあります。
それは何に興味のフォーカスを当てるかによって変わってきます。
いずれにしても、「自分」を書く場合、「視点」は自分にあります。

さて、「他人」を書く場合。
たとえば、ぼくが「田中角栄」に興味を持ったとします。
ぼくの人生には田中角栄さんと何の接点もありませんから、彼に関する本を書こうとすると、資料を調べたり、関係者に取材をするなど情報を集める必要があります。
そして集めた材料を使って本を書く際、「語り口」をどうするか決めなければいけません。

たとえば、ぼくが、田中角栄をよく知るAさんにインタビューしてある事実を入手したとします。
この場合、二通りの書き方があります。

1)私がようやくA氏に会って話を聞くと、A氏はその時の角栄について顔をしかめながら語った。「いやあ、オヤジ、怒っちゃってね。顔を真っ赤にして書類を叩きつける訳です。それで、秘書に向かって馬鹿! と大声で叫びましてね。我慢の限界だったんじゃないですか?」

2)角栄には我慢の限界だった。彼の心の中で抑えきれない怒りが沸き上がった。書類を叩きつけると秘書に向かって「馬鹿!」と怒鳴った。

1は、言ってみれば、集めた資料を読者に向かって分かりやすく「解説」しているのです。
この時に筆者は、この場面のバリューを読者に説いたりします。たとえば「全幅の信頼を寄せていたと思われる秘書に対して、実は角栄は一度だけ怒りを露わにしたことがある。これは今回の取材で初めて明らかになった」などと書く訳です。

2は、集めた事実から「物語り」を構築しているのです。ここでは、筆者は角栄の心の中に入って表現しています。
だから、「顔を赤くして」という表現は使いません。
「顔が赤い」というのは、第三者が角栄を見た時に思ったことであり、自分の主観で「俺は顔を赤くして怒った」という表現は無い訳です。

書いている対象は「自分」なのか、「他人」なのか。
「他人」を書いている場合は、「解説」しているのか、「その人に入って表現=物語り」しているのか。

こういった区別が曖昧なノンフィクションは、ぼくはやはりあまりレベルが高くないと思います。

今年度の講談社ノンフィクション賞は、角岡伸彦さんと森達也さんが受賞しましたが、二人の作品は他の候補と比べて、「書き方」、「立ち位置」、「語り口」、「事実に対する態度」が明らかに優れていたと思います。