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「政治家失格」(文春新書)田崎史郎2009年07月01日 20時58分44秒

テレビ朝日の「報道ステーション」って見たことがありますか?
政局の話になると、時事通信社の田崎史郎さんが出てきて解説してくれるんです。
この田崎さんが独特の味わいと語り口があるんです。
そして最近になって、本を書いていることを知りました。

そこで、田崎さんの本を3冊をまとめてAmazonで買いましたが、そのうちの1冊が、「政治家失格」という本です。
サブタイトルは「なぜ日本の政治はダメなのか」というものです。

今日は休診だったので、お昼過ぎから一気に読んでしまいました。
政治や政治家に対する評論に加えて、「自分史」も織り込まれていました。
いや、「自分史」の方が面白かったかな。
小沢一郎に関するオフレコをすべて書いてしまった経緯とか。

最近優れた政治家が出てこない理由の分析も面白かったです。
それは、昔の政治家は「敗戦」をくぐり抜けて来たから、人間として強いという分析です。

なるほど、そうかもしれません。

いずれにして戦後日本の繁栄と没落はすべて自民党によるものでしょう。
この自民党なるものを倒すためには、自民党的なものでなくてはならない訳です。
それが今の民主党の執行部の姿です。

世襲制度なんて法律で制限する必要はありませんが、これによって自民党はますます劣化していくことは避けられないでしょう。
麻生さんも言っていましたよね、魚屋の子は魚屋。
つまり世襲議員は商売として政治をやっている訳です。

民主党の生え抜き議員が党の執行部につく頃に、日本の政治は良くなるのかもしれませんね。
あと10年くらいでしょうか?
それとも20年?
それまでは結局官僚が国を支えるんでしょうね。

「命のカレンダー」を語る その12009年07月02日 21時38分49秒

昨年、講談社さんから本を出して頂き、1年が経ちました。
「命のカレンダー 小児固形がんと闘う」です。
本は4刷、1万部まで行きましたが、最近はあまり売れているような気配はありません。
去年はラジオやテレビに出演して大きな反響もあり、慌ただしかった印象です。
今は静かに落ち着いていますから、この機会に自著を語りましょう。

第1章に出てくる「雄治」君。
僕は医学部の6年生の時に、この子に出会ったのですが、それは小児外科の臨床実習の際です。
1週間、受け持ち患者さんの疾患を勉強するんですね。
僕らは5人の学生のグループでした。

僕が受け持ったお子さんは3歳の「腸回転異常症」でした。
雄治君を受け持ったのは、たしか松江さんだったような気がします。
現在、松江さんは千葉大病院の皮膚科の教授になっています。

この時、蓑島君は、1歳の肝芽腫の女の子を受け持ちました。
1つのグループで、2人の小児がんを受け持ったのは珍しかったと思います。
現在、蓑島君は、ワシントン大学の放射線科の教授になっています。

僕は自分の受け持ちの子どももしっかりと診ましたが、雄治君と肝芽腫の女の子に釘付けになりました。
「ああ、この世の中にはこんな病気があるんだ」とつくづく思いました。

僕は小児外科へ実習に行く前から、小児外科医になりたいとぼんやり考えていましたが、がんの子どもたちを見て、その思いは一層強まりました。

また、学生の間の噂では小児外科の高橋教授は大変怖い先生となっていましたが、実習の初日の朝に一目見た瞬間に、怖い振りをしているだけで、とても優しい先生だと分かってしまいました。
本に出てくるA先生ですよね。

今に至るまで、そのイメージは変りません。

実は第1章には、研修医として働く僕の日常がもっと詳しく書かれていました。
それは、子どもに針を刺す場面です。
毎日のように血管に針を立てると、血管がつぶれていって、刺す場所がなくなるんです。

すると、首の血管くらいしか残らなくなり、首から採血を行ないます。
3〜4歳の子どもたちが、ちゃんとそれを分かっていて、自分から処置台のベッドに上がり、ベッドから頭を落とし、「イー、イー、イー」と声をあげるんです。
すると、首の血管が怒張しますので、僕はそこを目がけてズドンと針を刺す訳です。

今思い起こすと本当に切ない。
いたいけな子どもたちの姿が目に浮かびます。
このシーンは本のページ数の関係で割愛となりました。

いつかどこかで書けると良いですね。

「命のカレンダー」を語る その22009年07月03日 20時33分46秒

昨日に続いて自著を語りましょう。

第2章に登場するのは、「達也」君、「由香」ちゃん、「純」君。
この3人のエピソードは、比較的短く描かれています。
3人とも、僕が研修医だった今から22年前の闘病です。

強烈な印象があって、今でも決して忘れられません。
僕はこの3人を描くにあたって、カルテなどの資料はほとんど見ていません。
全部記憶を掘り起こしたのです。
しかしまるで昨日の出来事かのように明瞭にシーンが浮かび上がります。

「達也」君のは手術の場面は、描写の迫力で賛否両論があったようです。
「すごい! 迫力満点!」と言ってくれた友人もいます。
「ちょっとあれは、女性は引く」と言った友人もいます。

講談社内部では、男性社員から賛意の声が多く上がったそうです。

特に再手術で血液が天井まで吹き上がる場面。
本には書かなかったけど、いえ、最初は書いて完成前に自分で削ったんですけど、血液が天井の「無影燈」にぶつかった音まで僕は今でも憶えています。
「ざざ」って。
ああいう場面を見てしまったら、一生忘れられない、いえ、忘れてはいけないと、24歳の松永青年は思ったものです。

「純」君とは本当に仲良しだった。
僕が医者として接したお子さんの中で、一番の仲良しの子だったな。
年齢も12歳だから、話があう。
12歳と言えば、今の僕の長女の年齢じゃないか。
本当に純な子だった。大好きでした。

手術の場面で繰り返し出てくるのは、A先生とC先生の名コンビ。
A先生は高橋教授。C先生は大沼教授。
二人の手術は本当にすごかった。
手術を進める意思の力とか、勘とか、度胸とか。
決断して実行するスピードとか。
東大の小児外科の教授先生が見学に来ましたからね。

僕は2人の弟子ですが、これは最後まで真似ができなかったな。
まあ、僕はそういう点ではちょっと外科医としてセンスが無かったのかもしれませんね。

続きはまた今度。

診察券番号5000番2009年07月04日 19時59分48秒

土曜日のクリニックはいつもだいたい混むのですが、今朝、クリニックに到着すると玄関の前で待っている患者さんは一人だけでした。

9時ちょうどに診療を開始すると、この患者さんは初診のお子さんで診察券番号がちょうど5000番でした。

開業して3年とちょっと。
その間に5000人もの患者さんが来てくれたんですね。
この数字が多いのか少ないのか僕には分かりませんが、まったく想像していなかった数字であることは間違いありません。
うちのクリニックは地域のみなさんによって生かされていると言えます。

さて、この5000人目のお子さん。
あれ、ママはなんと僕のよく知っている人です。
僕が大学にいた時に小児外科の臨床実習で指導をした医学生。
つまり現在はドクターですね。
聞けば、千葉県を代表する有名な総合病院に勤務中とか。
本当に偶然ですね。

さて、このお子さんの診療を終えると、電子カルテの画面に診察待ちの患者さんが20人も並んでいました。
い、いつの間に。
またたく間に、待合室は喧騒につつまれました。

終わってみれば、9時から12時の受付けの間におよそ60人ほどの患者さんがお見えでした。
普段のかかりつけは他のクリニックだけど、そこは混んでいるのでうちに来たという人もいました。
診察が終わったのは14時近く。

結局はいつも通りの土曜日でした。

「命のカレンダー」を語る その32009年07月05日 20時14分01秒

さて、自著を語る続きです。

第3章には「秀」君と「麻衣」ちゃんが登場します。
僕は医者になって3年目に大学院に進学し、がん遺伝子の研究を行ないます。

研究は非常に順調に進み、業績も上がりました。
1991年頃は、僕の研究は「神経芽腫の分子生物学」という分野では世界のトップの中にいたと思います。
日本小児外科学会から「会長特別表彰・最優秀演題賞」を頂いたのもこの頃です。

ですから本気で医者を辞めようと思っていました。
一生、研究者として生きて行こうと思っていたのです。
分子ウイルス学の清水教授からも、「助手」のポストを用意するから研究室に残らないかと誘われました。

でも、結局、医者を続けた。
その理由はなんでしょう?
今、思い起こしてもよく分からない部分があります。
しかし秀君の存在が大きかったことは間違いありません。

大学院を修了して、松戸市立病院・沼津市立病院・千葉県こども病院へ出張になりますが、松戸市立病院では卵巣がんの女の子に出会っています。
大変たちの悪い卵巣がんで、治療結果は悲しいものでした。
それまで卵巣がんというのは、小児がんの中でも治しやすいがんだと思っていたので、その女の子の治療をきっかけに、論文をたくさん読んで勉強をし直しました。
そして沼津に行って出会ったのが麻衣ちゃんでした。

この病院では小児外科は僕一人でしたから、それは強烈なプレッシャーでした。
患者さんの治療成績の結果はすべて僕が負わなくてはなりません。
ストレスで顔面神経の帯状疱疹になったりしました。

麻衣ちゃんの卵巣がんは最終的に完治させることができましたが、細かい苦労はいくつかありました。
麻衣ちゃんの治療を始めた頃、実は、小児病棟では、僕は看護師さんたちとあまりうまくいっていませんでした。
なぜならば、僕の注文が微に入り細に渡って非常のうるさいので、看護師さんたちが辟易してしまったんですね。

そしてこんな難病の症例を引き受けて、「大丈夫なの?」という冷たい視線をたくさん受けました。

初回の手術で卵巣がんが摘出できなかった時、手術室で僕の顔は引きつっていたそうです。
これは手術室看護師だった家内が後に言ったことです。

小児病棟に戻ると、看護師たちも「手術不可能」という結果にショックを受けたようで、みんなが僕に近寄ってきて、これからどうするのかを聞いてきました。
このあたりからみんなの団結が強まった様な気がします。

抗がん剤で麻衣ちゃんの頭を冷却して脱毛を防ごうと思い、看護師にその計画を持ちかけた時は、「ああ、また面倒なこと言い出したなと思われるかな?」と不安でした。
でも僕が「年頃の女の子なので、少しでも脱毛を防ぎたい」と言ったら、リーダー格の看護師さんが目を赤くして、
「やります!」ときっぱりと言ってくれました。

ちょっと感動しましたね。

「梶山静六―死に顔に笑みをたたえて」 田崎 史郎2009年07月06日 20時42分22秒

田崎 史郎さんの「梶山静六―死に顔に笑みをたたえて」を読みました。
580ページの大著ですが、一気に読んでしまいました。

竹下派七奉行の一人、梶山さんの伝記です。

大変おもしろく読みました。
何と言っても「大乱世の梶山」ですからね。
言葉も大変重みや深さがあって、読みごたえがありました。

最後の大勝負で総裁選に無派閥で出馬するんですよね。
負けると分かっていながら。
しかしきれいな散り際でした。

この本は梶山さんが息を引き取る場面から始りますが、生まれた時からの時系列にした方が良かったと思います。
そうすれば、読者は梶山さんに感情移入をして、ラストの大往生で深い感激が味わえたはずです。

この本を読んでいると、自民党の政治家って権力を握るためには何でもやるということがよく分かります。
同志を裏切るなんて当たり前。
自分が力を得るためには、脅し、怒鳴り、懐柔し、ポストを与え、約束を反古にし、影で悪口を言い、面と向かえば土下座も辞さない。
すごい集団です、自民党。

昨日の静岡知事選で勝利を収めた民主党ですが、そんなに簡単には政権は取れないですぞ。

「命のカレンダー」を語る その42009年07月07日 22時14分11秒

自著を語る、の続きです。

第4章では夏美ちゃんが登場します。
夏美ちゃんの闘病は、本当に壮絶でした。

僕はこれまでに200人以上の小児がんのお子さんの闘病に関わってきましたが、夏美ちゃんの病気くらい悪性度が高い腫瘍は他になかったかもしれません。
抗がん剤がまったく効かず、まるで坂道を転げるような勢いで腫瘍が大きくなっていきました。

本には書きませんでしたが、夏美ちゃんにはきょうだいが何人かいて、みんなで「ジャンケン」をすると必ず夏美ちゃんが勝ったそうです。
一度もジャンケンに負けたことのない夏美が、なんでよりによってこんな病気にと、何度もお父様が言っていました。

夏美ちゃんは入院した時から生命の危機があるくらいの重症でしたから、闘病生活は最後まで個室でした。
これは夏美ちゃんやご家族にとっては本当に辛かったと思います。
大部屋には、同じ病気の子どもたちがいますから、もし大部屋で闘病できれば夏美ちゃんご家族はもっと精神的に楽だったと思います。

ご両親の夏美ちゃんに対する愛情の深さは、本当にものすごいものだと思いました。
最後の最後の瞬間まで、絶対に諦めないんですね。
奇跡を信じて待っているんです。
僕は、「ああ、最後まで信じてあげられるのは親だけなんだな」と深く感銘しました。

僕は主治医として治療にあたって、猛烈な精神的なプレッシャーを感じました。
もう、ありとあらゆる治療をやり尽くしても、ご両親から次の治療、もっと良い治療を求められる。
僕は毎日、胃を押さえながら大学病院に出勤していました。
本を執筆していた時も、あの時の感覚を思い出して、胃を押さえながら書きました。

僕は本を書くにあたって、どうしても夏美ちゃんを実名で書きたいと思いました。
そこでカルテを引っ張り出して住所を調べ、思い切って手紙を書きました。
10年ぶりの手紙です。
するとメールで返信があり、その後のご家族の心境が綴られていました。
その内容をここで書く訳にはいきませんが、親子の愛情は永遠に不滅であることを知らされました。

第4章のタイトルは「普通とは違う道」です。
僕は夏美ちゃんの闘病の時に、自分の人生は「普通とは違う道」なんだと自覚しました。
そしていつかこのことを、世の中の人たちに伝えなければならないと思いました。

夏美ちゃんの闘病は、いろいろな意味において僕の医者の、いや、人生のターニング・ポイントになりました。

「命のカレンダー」を語る その52009年07月08日 19時39分20秒

さらに自著を語ります。

第5章では七海(なつみ)ちゃんが登場します。

七海ちゃんの愛らしさは本に書いた通りなので、これ以上は書きません。
ご両親は本当にインテリジェンスが高い夫婦でした。
ママはベルギーの方で、日本語が大変上手です。
でも夫婦の会話は英語でしたね。

神経芽腫に関する英語の専門文献を読んでしまう二人でしたから、最先端の医学知識を持っていました。
千葉大学の医学生はとてもかなわなかったでしょうね。
いや、小児がんを専門にしていない医者だと、この二人の質問には答えられなかったでしょう。

ですからご夫婦は、千葉大で治療を受けることに全然拘っていませんでした。
世界で一番良い施設に行きたいと。
自宅を売り払っても、お金は作ると。

結局、千葉大で治療を受けた訳ですが、千葉大という施設に完全に満足していた訳ではありません。
ただ、僕が「どんな質問にもすべて答える」と言って、実際に答えたので、信頼を得たのでしょう。

しかし最期の最期では、僕の力は必要としていませんでした。
自立した立派な家族でした。
七海ちゃんが死期を悟って、楽しい思い出を目にコピーする場面などは、僕は本を書きながら涙で字がにじみました。

葬儀が終わった後、約束無しで二人が僕の外来に突然表れました。
そして僕は、いろいろな話を聞きました。
そのあたりは本に書いた通りです。
実は、葬儀後に患者さん家族が面会を求めて来たのは、これが初めてでした。
僕は何と返答していいか分からず、ただ黙って話を聞いていました。
ご夫婦の言葉は時間の経過と共にだんだん重みを増して行きました。

それまでの僕は未来に向かってただ突っ走る医者でしたが、過去も少し振り返るようになりました。
七海ちゃんのご家族には本当にいろいろなことを学ばせてもらいました。
もちろん今でも交流があります。

普通の医者、非常識な医者2009年07月09日 20時24分37秒

今日のクリニックは、午前中は定時の12時に終了したのですが、夕方はなぜか混雑しました。
新患のお子さんが多く、初対面なので、聴診も時間がかかります。
そしてけっこう多かったのが、他のクリニック(病院)でこう言われたのだけれど、それで良いのかといった、セカンドオピニオン的な受診でした。

もちろん丁寧に対応してきちんと意を尽くしたつもりですが、何で僕のところに来るのか少し不思議です。

あるママに言ったのですが、「僕は普通のただの医者です」。

何か特殊技能がある訳でもなく、特別な知識がある訳でもありません。
謙遜ではなく一介の町医者です。
確かに「小児外科専門医」「小児外科指導医」という肩書きは持っています。
しかしこれはやがて喪失することになります。
日本小児外科学会が、手術を行なっていない小児外科医(つまり僕みたいな医者)に対して、「小児外科専門医」の資格を更新しない方針だからです。

つまり僕は学会から「小児外科専門医ではない」というお墨付きをもらう訳ですね。
名刺は全部作り替えです。
しかし、ま、肩書きにすがって生きる生き方は愚劣なので、どうでも良いですが。

そんな訳で、僕は本当に普通の医者、ただの医者です。

ところがそんな僕のところに、日本全国から、いや、海外からもセカンドオピニオンの問い合わせがきます。
小児固形がんの治療方針や画像の読み方に関する質問ですね。

遠方からクリニックまでお見えになるご家族もいますし、メールだけで対応しているご家族もいます。
普通、セカンドオピニオンと言えば、ちゃんとカルテを作って、「もう一つの意見」を述べればそれで終了です。
それ以上のことをすれば、ファーストオピニオンである主治医に迷惑がかかる心配があります。

しかし僕は、メールで問い合わせがあれば、何度でも何度でも返信をします。
そういった患者さんが今、数人います。
その内容は、医療的なアドバイスのこともありますが、単に「がんばれ!」と応援するだけのこともあります。

僕のこういう態度を見て、多くの医者は非常識と思うかも知れません。
医者と患者の間のけじめをきちんとつけて、医療的なことを話すならば、ちゃんとカルテを作れという声が聞こえてきそうです。

つまり僕は非常識な医者ということです。

ま、そうかもしれません。
しかし困っている人がいれば助けてあげるのが、「人間としての常識」ではないでしょうか?

僕は非常識な医者と非難されても、常識を持った人間として生きて行きたいです。

政治は権力欲を満たす合法的戦争2009年07月10日 22時34分24秒

今、田崎史郎さんの政治に関する本を読んでいますが、その途中で目に付いた興味深い言葉を紹介しましょう。

小沢一郎が自民党時代に言った台詞です。

「人間の本性である物欲と性欲は年齢とともに衰えても権力欲だけは残る。政治は権力欲を満たす合法的戦争」

すごいですね。そういうものなんですね。
政治家っていうのは、人間関係や信頼関係で結びつくんだそうです。
政策や理念は二の次なんだそうですよ。
こうして自民党は激しい権力闘争を繰り広げ、その闘いに勝ったものだけが総理の座についた訳ですね。

ま、それを考えれば宮崎県の知事さんが、「私を総裁候補にしろ」と言っても自民党の人たちが相手にしないのは当たり前です。
この知事さんも、政治センスが良い意味で無いですね。

僕が子どものころは、「三角大福中」の時代。
この人たちの政治闘争は凄まじかった。
「安竹宮」が後を受けて、政治家が小粒になったけど、森さんが総理になった時点で自民党は終わっていたと田崎さんは言っていました。
そうかもしれません。

しかし権力欲という意味では、麻生太郎さんってけっこう昔の自民党的ですよね。
今の自民党の総裁として実にふさわしいんじゃないですか?